初めて来た人へ

―第九話―

 薫と俺たちが付き合い始めてから、もう三日が過ぎようとしていた。二人の関係はあっと言う間に広まったが、皆さほど驚いている様子は無かった。
 聞けば、『付き合っていなかった』と言う事の方が、周りからすれば驚きだったようだ。それほどまでに俺と薫は、当たり前のようにそばに居たんだ。
 当たり前のように時を同じくし、絆を深めていた。そして俺は、その事に全く気がつかなかった。
 周りの目。薫の気持ち。時としてそれが、とんでもない罪のように思えた。
 結果的にこうなったが、こうなるまでに時間がかかりすぎた。
 つまり、薫に余計に血を流させ過ぎた。
 つまり、そう言う事なのだ。
「気にしなくてもいいよ」
 二人で手をつなぎながら、彼女はいつも決まってそう言う。
「結果的にこうなったんだし」
 彼女が笑顔でそう言ってくれる事。それが、俺にとっての特効薬であると同時に、その罪をさらに強く意識させるものでもあった。
 翔にも悪い事をしたと思う。彼のために考えたデートを、全て水の泡にしてしまったあげく、彼にとっての――もちろん俺にとってもだけど――愛しい人を奪った。
「気にすんなって」
 彼も決まってこう言うのだった。
「うすうす気づいてた事だから」
 そう言って寂しそうな表情を見せる。
 そんなこんなで最初の一週間は、そんな罪悪感が常に付きまとい、受験勉強どころではなかった。
 彼女にも心配をかけた。けど、彼女や友の言葉は俺の体にしみ込み、いつしか罪悪感に対する耐性をつくりあげた。
 罪悪感は体に侵入できなくなった。それが理由で俺の周りをうようよせざるを得なくなった彼等だが、やがて力尽き、どこかへと消えていった。
 そうなるまでのこの一週間は、長かった。


 物思いにふけっていた一週間のブランクは、想像以上に大きかった。それをとりもどそうと必死に勉学に励んだが、気がつけばクリスマスなど過ぎた事すら気がつかない状態だった。
 正月も、去年みたいにぐうたらしている暇は無かった。とにかく、この正月でどれだけ皆と差を詰められるか。頭にはそれしかなかった。だから、以前からあまり美味しくないと思っていた御節も、今年は食べられた物ではなかった。
 つくづく、こんな大変な時期に恋を芽生えさせるなんて馬鹿な事だと思う。薫の事を考え始めると、平気で二時間は同じページのままだった。
 その事を薫に話したら、「なんなら正月の間だけでも別れようか?」と逆に叱られた。だから俺は、薫の事を考えるのは入浴時と寝る前だけにし、それ以外はただひたすら勉強に没頭した。
 デートなんてもってのほかだった。薫には可愛そうだが、そんな暇があればテキストの一ページでも多く進めてやる。頭が混乱して居る時の人間の思考ほど、酷くかつ恐ろしい物は無いと思う。
 なのに彼女からデートに誘われたらどうするだろう? もちろん、醜いぐらい顔をニヤつかせて鼻の舌を伸ばし、外へ飛び出すに決まっている。
 勉強疲れをリフレッシュ。どこかで聞いた事のあるフレーズだがまさにその通りだった。


 新学期が始まってすぐ、滑り止めとして受ける私立の受験日が迫ってきた。俺は、合格間違い無しレベルの私立一校と、受かるかどうかは運しだいレベルの私立一校を受験。そして見事両校受かったのだった。
 そのまさかの結果に一番驚いたのは、家族でも先生方でも友達でも、はたまた俺でもなければ、薫本人だった。
 なぜ彼女が、俺以上にこの結果を喜んでいるのか分からないが、とにかく彼女は嬉しそうだった。勢いに乗って、俺と手をとって踊りだすほどだった。
 さすがの自分はそこまで驚き喜ぶ必要もなかったし、嬉しいのは同じだけどあくまでこれは滑り止め。第一志望の高校は、今の所合格するかどうかは五分五分。勉強しだいでは、受かりもするし落ちもする。
 おちおち気を抜いてる暇は無いに等しかった。
 とか何とか言っておきながら、私立受験後の一週間はいつものメンバーで遊びほうけ、ほんのひと時ではあるが受験生である事を忘れたのだった。


 健吾も龍二も、恵美ちゃんも薫も、そして俺も、目指す第一志望校は同じだった。これと言って意味は無い。ただ、薫が俺と同じ高校がいいと言って、さらに薫が行くならと恵美ちゃんもその高校を選んだ。恵美ちゃんは半ば強制的に賢吾に同じ高校を受ける事を勧め、あまった龍二は「今さら一人になりたくねぇし」と言って、金魚の糞の如く俺たちの後ろを追ってきた。
 嫌ではなかった。むしろ日常がいつまでもそばに居てくれて、そしてそばに居たいと望んでいる事が嬉しかった。
 俺たちは一緒に勉強をしたり、息抜きに遊んだりしながら、受験生にしてはそれなりに楽しい時間を過ごした。
 最初は不安で一杯だった受験ではあるが、皆と一緒なら怖くないし、受かる気もしていた。
 とても月並みな言葉ではあるが、そう思わざるを得ないから不思議だった。


 やがて寒さが最高潮に達し、この地方では珍しい雪が降った二月のある日。薫はマフラーに手袋にコートと、完全防備で学校へと登校する。
 俺は、彼女の選んでくれたマフラーと軍手のみで登校した。なぜ軍手なのかと言うと、とてもシンプルでかつ誰がつけても一応しっくり来るちょうどいい大きさ。中高生の男子の冬と言えば、軍手は必需品だった。
 マフラーは、結局彼女の編んでいてくれた物が間に合わず、市販のものを選んでもらった。まだ完成していないマフラーは次のシーズンで渡すからと、彼女は今からもう張り切っていた。
 久しぶりの雪を見て、彼女はとても大はしゃぎだった。実際危なっかしくて見てられないのだが、彼女の笑顔から顔をそらす事が俺には出来なかった。
 幸い転ぶ事無く学校に辿り着いたが、彼女は既に疲れきっていて、午前の授業のほとんどを寝て過ごしていた。彼女の幸福そうな寝顔を見ていると、思わす噴き出したくなった。ほんの少しだけ、よだれでノートを湿らせていた。
 一瞬、この事実を彼女に伝えた時どんな顔をするか想像してみた。想像ではあるがその反応はあまりに面白く、見たい気持ちが頂点に達していたのだが、それ以上にこれを俺だけの秘密にしておこうと言う願望が頭に広がった。
 チャイムが鳴り給食の時間になった。俺は薫の体を揺すって起こしてあげた。
「……おはよう」
 顔を上げ、寝ぼけ眼で俺を見た後の第一声がそれだった。
「と言うよりはこんにちは……だな」
 そう言い、教室の時計を指差す。
「『いいとも』はもう終わってるな。『ごきげんよう』の時間帯だ」
 薫は目をこすって時計を見た。
「先生怒ってた?」
 と聞かれたので、
「呆れてた」
 と答えた。


 その日の午後の授業内容は、まったく頭に無かった。今度は俺が、ずっと寝ていたようだった。
「それでも受験生のつもり?」
 と彼女は言うが、正直な話し彼女に言われる筋合いは無い、と思った。
 雪はいつの間にか止んでいたが、相変わらず空は灰色だった。雨の日の空の色と、雪の日の空の色は一緒なのに、何故こんなにも雪の日の方が美しく思えるのだろうか。
「やっぱり、雨か雪かの違いだと思うな」
 と、彼女は自信ありげに言った。
「なるほど。納得」
 そんなこんなで、いつかの公園へと足を運んだ。俺は来る気なんて無かったのだが、彼女が行きたいと言ったので、彼女の後に続く事にした。
 小さな雪原と化していた公園は、既に二、三組の雪だるまがお見合いをしていた。子供の居た形跡はあっても、居る形跡は無かった。
「よかった」
 彼女はそう微笑んだ。
「何がよかったの?」
 そう聞き返すと、彼女は頬を赤くした。
「ん〜。ちょ〜っとね〜」
 彼女は公園の中を歩き、手ごろな長いすを見つけると雪を払った。払った後に残った水滴をハンカチで拭いた。
 彼女の考えている事が、何となくだが分かった。
「座ろ? 勇ちゃん」
 予感は的中した。
 俺はわざと戸惑った振りをして彼女の隣に座った。
「で?」
 俺は座った後に言った。
「次は何?」
「ハイこれ」
 そう言って差し出してきたのは、少し大きめのカップのような物だった。半透明の袋に入っていて、袋の口をリボンで綺麗に閉じられている。
 袋を開けると、独特の香りが広がった。
「……チョコレート?」
「ほろ苦い大人の味に仕上げたんだ」
「ビター好きって事、話したっけ?」
「勇ちゃんの事はなんでも知ってるのだよ」
 と鼻高々に言った。
 良く考えてみれば、今日は十四日だった。雪の降る――正確には降った――バレンタインデー。さしずめホワイトバレンタインと言った所だろうか。嫌ではなかった。
 俺がカップから丸い形のチョコを取ろうとしたら、彼女がそれを止め、そして取った。
「はい。ア〜ンして」
「……はぁ?」
「『はぁ』じゃなくて『ア〜ン』だってば」
「恥ずかしいって」
「誰も見て無いじゃん」
 俺はしぶしぶ口を空けた。
 口の中にそれが入ったのを確認すると、口を閉じ、中のチョコを転がした。俺の好きなビター味。このほろ苦さと後味の良さがなんとも言えない。
「美味しい?」
「もしかして手作り?」
「初めてだったんだけど……どうかな」
「すっげ〜美味しい」
 お世辞なんかではなかった。
 とにかく、このほろ苦さといい、後味のすっきりさといい、まさに絶品だった。
「ほんと? じゃ、私も」
 そう言って彼女もチョコを口に運んだ。
「……我ながら上出来ってところかな〜」
 そう言って、落ちないように頬を押さえた。
 その後は、ほとんど無言でチョコを食べ続けた。三分もしない内にカップの中は空になり、急いで食べた事を後悔してしまった。
「また作るね」
 彼女はそう言うと微笑んだ。
 暫くすると、再び雪が降り出した。寒さもまた増し、いつまでもそこに居るのが辛くなってきた。
「そろそろ行こうよ」
 彼女が立ち上がろうとした。
 だが俺は、彼女の手を押さえた。
「俺も渡すものがある」
「え?」
 彼女は戸惑った様子で、再びイスに座った。
「目、瞑ってて」
 さらに戸惑いながら、彼女は目を瞑った。けど、彼女のそれが演技である事はとうに見抜いてる。
 こんな時、こんなシチュエーションでする事なんでたかが知れている。俺達はそっと唇を重ねた。
 最初は優しく。彼女の不安を取り除くように。
 次に少し強めに。もっとそれを求めるように。
 最後も優しく。いつまでも唇を感じるように。
 彼女の唇が震えているように感じられたが、それが寒さの為なのか不安の為なのか、その時は分からなかった。
 でも、きっとそのどれでもないんだと、自信を持って思える。


 ファーストキスは、ほろ苦い大人の味だった。

 続く

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