楽で楽しいほど早く、そして辛く苦しいほど遅く、時と言うのは流れていく。それは誰もが知っている『時の法則』であり、誰もが体で覚えている『時の感覚』だ。
昔俺は、なぜ辛い時に限って流れが遅く感じるのか、一人で考え込んだ事があった。結論は、つまる所スポーツの試合とそれは似ていると言う事。
よくスポーツ、特にサッカー・野球・バスケットなどの球技で、監督やらコーチがこんな事を言う時がある。
「失敗した時や負けた時の方が、勝った時よりも色んな物を得る事ができる」
時の流れもまた然り。
辛い時、時の流れを遅く感じるのは、その得た物が何かを確認する為の時間を確保する為だ、と俺は思う。そして、その得た物を教訓や課題として、次に繋げるのだ。
ここまで語って置いてなんだが、どちらかと言うと今年は時の流れが速かった。その中に流れの遅い時も当然あったが、全体的に見れば、すぐに終わってしまった。ほんとに、一年とはあっと言う間だった。
俺が何を言いたいのか。
つまる所、俺たちは何事もなく無事三年へ進級。晴れて受験生となってしまった訳だ。
「受験のバカヤロ――ッ!!」
田んぼの広がる、開けた空間で、龍二はそう叫び続けた。
俺と賢吾、薫に恵美ちゃんは、常に他人の振りをして歩いた。
俺と龍二と賢吾が知り合って、初めて別々のクラスになった。
三人が同じクラスというのが俺の中での常識になっているせいもあり、なんだか不思議な気分だった。
「たまには良いんじゃねぇか?」
龍二は言った。
「別にクラスが違うだけで、会えない訳でもないし」
「そうだな」
龍二の言葉に、俺はそう答えた。
よく見ると、龍二と賢吾もクラスが違う。つまり、俺達三人は完全にバラバラになってしまったわけだ。
「――あ」
薫は突然声を上げる。
「どした」
「見て」
薫は、クラス分けの用紙の一部を指差していた。俺のクラスの所だ。そしてそこには、黒いハッキリとした明朝体の文字で、『篠原 薫』と書かれていた。
「また一緒だね」
薫は、少し嬉しそうに言った。
「……マジ?」
少し嬉しかった。
俺の、二つある日常の内の一つが、これからも俺のそばに居てくれるから。
「ヨロシクね、勇ちゃん」
今まで見た笑顔の中で、一番輝いていた。それを直視する事は、俺の羞恥心が許す事は無く、目を背けてしまった。
そしてそのままクラス分けの用紙にもう一度目を落とす。
『海野 勇樹』
『篠原 薫』
二つの名前には、まだ少し距離がある。ちょっと寂しい気がした。でも、隣の彼女は、そんな小さな距離を気にはしていない様に見えた。
俺は鼻で小さな溜め息をつく。
そして、彼女の言葉に言葉で答える代わりに、静かに微笑んだ。
もっとお互いの距離を縮められるかな〜、などと思っていたが、それは都合のいい考えだったようだ。
彼女は、去年の穴を埋めるように、頻繁に女子と話をしていた。俺と話をする機会は、登下校の時に限られてしまった。去年みたく席も隣同士と言うわけでもない。ちょっと寂しい気がした。
もっとも、去年の薫が俺たちと一緒に居すぎていた、という風に考える方が妥当なのだろう。休み時間は俺もクラスの友達と会話をしたり、廊下で龍二達と話をするだけで、薫との接点は少しずつ離れて行ってるようにも思えた。
「寂しいね〜。ゆ・う・ちゃ・ん」
龍二はわざとらしく言った。
「別に。去年の篠原が、ホントの篠原らしくなかっただけだろ?」
「またまた〜。開き直っちゃって」
「うりうり」と俺の腰の辺りを小突いた。まったくもって鬱陶しい。
俺は「うるさい」と言って、払い除ける素振りをした。
「けど」
と、賢吾が話を進めた。
「ホントに今の篠原が、お前の言う『ホントの篠原』なのか?」
賢吾は常に冷静だった。だから、彼の言う事はとても説得力があり、同時に鋭い所をついてくる。
もっともな事だった。
「そもそも」
今度は龍二が言った。何だか取調べを受けている気分だ。
実際取調べなんて受けた事は無いけど、ドラマとかを見るかぎりじゃ、自分が答える前に次々と質問の波が押し寄せてくるような――つまり今の俺みたいな感じなのだろう。
「お前は篠原の事をどう思っているんだ?」
「どうって……例えば?」
「え?」
俺は質問に質問で答えた。それに対し龍二は一瞬戸惑う。
「どうってつまり……」
「好きなのかそうじゃないのかって事だろ?」
何の恥じらいも無く、賢吾は言った。
同時に俺の中で、何か熱い物が急激に体中を走り回った。
「……し……篠原を……か?」
やっと出た言葉に、彼は瞬時に頷いた。
「べ……別に好きとかそんな事は……ただ友達としては付き合いやすいかなって……」
正直な気持ちだった。むしろ、今ここでその話をするまで、彼女の事をそんな風に思った事は無かった。
以前思っていた事が現実になった。こうやって改めて言われなければ、俺は自分や薫の事を、もう一度深く考える事が無かったのだ。
「ハッキリさせておけ」
賢吾が、いつになく真剣な眼差しをして言った。
「曖昧な関係は辛いぞ」
その言葉は、とても鮮明だった。何の抵抗もなく、俺の脳に伝わった。
彼は「お前にとっても、篠原にとってもな」と最後に付け加えた。
今度は俺が、堅固に質問しようとした。
だが、寸前で言葉を押し止めた。
「その為に、俺は何をすればいい?」
こんなの愚問だ。
帰り道は、例によって俺と薫の二人だった。しかし、今回は偶然が生み出した物ではない。賢吾と恵美ちゃんと龍二がくれた、つまりチャンスだ。
けどなかなか切り出す事が出来ない。
彼女は、俺の気など知れず、さっきから世間話やクラスの女子の話をしてばかり。でもその横顔は終始笑顔で、見ていて気分のいい物だった。物という表現方法が当たっているかどうかはこの際置いておくとして。
彼女は、俺の事をどう思っているのだろうか。ただの友達として。それとも、一人の異性として。
こうやって平気で手をつないで歩いているが、好きとか特別な感情がなくても、彼女は何のためらいも無く異性とこうする事の出切る人間なのではないか?
しかし、それはそれとして考えてみても、俺と薫が話し、お互いの事を教え合ったり知り合ったりした事は確かだ。
何らかの感情はあるはずだ。少なくとも、他の男子と比べたら。
「勇ちゃんどうしたの?」
突然彼女は、俺に言った。
「ぼ〜っとしてたよ? 大丈夫?」
「……大丈夫」
俺はそうとだけ返す。
不思議な事に、そこで会話が途切れた。
さっきまであんなに楽しそうに話していたのに。
「最近、クラスであまり話さなくなったよな。俺たち」
いきなりこんな事を言い出すのは、間違っていた事なのだろうか。言ってすぐ後悔してしまった。
「寂しい?」
彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。
「別に」
「ウソつき」
もちろんウソだった。本当は少し寂しいのだ。だが、そうはあえて口には出さなかった。
「篠原が誰と話そうと篠原の勝手だしな。ごめん。変な事言って」
「ホントにそう思ってるの?」
俺はわざと返さなかった。何も言う気にならなかった。
「勇ちゃんは……」
彼女は少しためらっている様子だった。
「勇ちゃんは私の事、どう思ってるの?」
鼓動が噴火した。流れるマグマの如く、体中に熱が走る。
俺が聞こうとしていた事を先に聞かれた。そんな戸惑いが、さらに俺の体を熱くする。
「そ、そういう篠原は……どうなんだ?」
「私?」
彼女はそんなに動じた様子は無い。至って平然としている。
少なくとも外側は。
「……」
彼女はわざと焦らした。
そして、
「ナ・イ・ショ」
そう言って微笑んだあと、間髪いれず彼女は次の話題を振ってきた。
「……そういえば勇ちゃんの誕生日、六月の十七だっけ」
俺は「ああ」とだけ答えた。
「プレゼント何がいい?」
「は?」
「プ・レ・ゼ・ン・ト。何がいい?」
なぜ突然その話になったのか良く分からない。いつの間にか、さっきまでの話は無かったような状態だった。
「何でも良いよ」
そう言った後、小さな声で、
「……気持ちがこもってりゃ……何でも良いよ」
「……気持ちが……なに?」
意地悪そうに笑い、わざとらしく言った。再び鼓動が早まる。
聞こえてしまったかと酷く後悔した。
「何でもねぇよ! つ〜かやっぱ要らねぇ! プレゼントとかなんて!」
彼女の手を振り解いて叫んだ。
「恥かしがらなくても良いよ」
笑いながら彼女は言う。
「気持ちがこもってるなら何でも良いんだよね。じゃぁ勇ちゃんの好きな『キュウリのきゅうちゃん』でも良いって事だよね」
「バカ! 余計要らねぇよ! んなもん! つーかプレゼントにきゅうちゃんってアホか!」
自分でも顔が真っ赤なのが分かる。
その一言がスイッチだったかのように、彼女はせきを切ったように笑い出した。なんだかすごく恥ずかしいのと同時に、情けないようにも思えた。
それは彼女に対してではなく、俺自身に対してだ。
気がつくと、俺も笑い出していた。
周りに人が居なくて良かった。
開けた空間で、その声がどこまでも届いてしまいそうな位、開放感があった。それが逆に、俺たちを開放的にしてくれたんだと思う。
さっきまでの緊張感は、笑い声に乗ってどこかへ消えていってしまった。
「……帰ろっか」
俺は彼女に手を差し伸べた。彼女は「うん」と笑って手をつないだ。
彼女に辛そうな様子は、少なくとも外見からは取れなかった。
結果に急ぐ必要はない。あせって道を踏み外しては元も子もないんだ。
ゆっくりと……自分達の望むペースで。
続く
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