初めて来た人へ

―第五話―

 年が明けた。この歳になると、年が明ける事に対し特別な意識はなくなっていた。どうせまたいつもの様に朝がやって来て、駅伝好きの母が朝から駅伝を見ている。
 親子三人の目が覚めると、毎年のように好きでもない御節を食べ、お年玉をもらって一日目が終わる。二日目以降はそれぞれの実家へ帰り、お年玉をたんまり貰って家に帰る。
 賢吾は実家が九州の方なので、正月いっぱいはずっと向こうで過ごすのが毎年のお約束だった。だから俺は、龍二と二人で正月を寂しく、けど盛大に過ごした。そしてお年玉も、服やゲーセンであらかた消費してしまい、二人で後悔しあった。これも、やはり毎年の事だった。
 そして新学期が始まる。俺達は、いつもの様に三人一緒に登校した。
 その通学路の途中で、賢吾は後で話したい事があると言ってきた。龍二が「ここでじゃダメなのか?」と聞くが、どうやらここだと他の人にも聞かれる危険性があるらしく、校舎内に入るまではその事について何の情報もくれなかった。もっとも、例え校舎内であっても、他人に聞かれる危険性が無いわけではないのだが。
 しかしまさかその事が、まだ中学二年生の俺と龍二にとってまさに未知との遭遇であったとは、その時は微塵も思わなかった。


「恵美ちゃんとシた――」
「シーッ!!!」
 あまりの衝撃に、俺と龍二は大声で叫んだ。
 まぁ付き合ってる以上、いつかは訪れる事だとは思った。でも、俺たちはまだ中学生なのだ。
「いや、いくらなんでも早ぇだろ。まだ中二だぜ?」
 俺は正直に思った事を言った。
「バカ。知らねぇの? 俺らの学年にも結構居るんだぜ。経験者」
 賢吾の言葉に対し、そういう問題なのだろうか、と思ってしまう。
 そういった情報を聞いた事が無いわけじゃないが、でもやっぱり実感がわかない。そんな人を見たことが無いというのも理由の一つだったが、何より経験済みの人間を間近で見たのも、今日、今、この瞬間が初めてだからだ。
 俺と龍二は、二人して大きく息を吐く。
「……なんだかな〜」
 俺は言った。
「なんか住んでる次元が違う気がするよ」
 龍二はそう言うと、再び息を吐いた。
「ねぇねぇ」
 突然背後から声をかけられ、俺は心臓が飛び出るかと思った。振り返ると、今登校したばかりの薫がいた。
「篠原さん、明けおめ〜」
 真っ先に龍二はそう挨拶をする。それに続き、俺と賢吾も挨拶をする。
「明けおめ。それよりさ、何の話?」
 果たしてこの事を、いくら親しいからとはいえ女の子に話してもいい事なのだろうか。
 俺は賢吾の方を見た。本人はあまり知られたくないらしい。露骨に嫌そうな顔をし、軽く首を振っている。
 まぁいずれにしても、恵美ちゃん本人から薫に情報が行き渡る可能性は十分にある。ここは黙っておいた方がいいのかもしれない。
「なんでもねぇよ。気にすんな」
「そう言われると余計気にしちゃうのが人間なのだよ」
 薫は微笑を浮かべたまま言った。
「ま、いいけど」
 あっさりとした反応が、何だか気にかかる。だが、深く追求してこなかったのは嬉しい事だ。
 俺たち三人は胸を撫で下ろした。


 三学期のメインイベントと言えば、別れの式。つまり卒業式である。学校によって、ほんとに卒業式がメインイベントかどうかは異なると思うが、とにかく俺の学校でのメインイベントは卒業式だった。
 ようするに、うちの学校は、三学期に行う行事がとくに何もない訳なのだ。適当にレクレーションやって、適当にクラスごとのお別れ会やって、実際たいしてお世話になってない先輩方を送る。それがうちの学校の三学期だった。
 だがそれはあくまで教員が考えるメインイベント。俺達生徒にとってはそんなの、ただのうざったくつまらない、まさに拷問。ずっと微動だにせずに、寒い体育館の中で何時間も過ごす。拷問以外の何物でもない。
 俺達の考えるメインイベントとは、それとはまったく別の物だ。それが、学期末に一回行われる、クラス対抗レクレーション。バスケかサッカーかを選び、それぞれクラスごとにチーム作って競う。
 不思議なことに、クラス対抗と言うのはそれだけで非常に燃えるものだった。『カッコよかったで賞』とか『沢山点を取ったで賞』とか『珍プレイだったで賞』とか、小学生のレクレーションみたいな賞がいくつもあり、そのどれかに入賞すると、その日一日だけクラスの英雄になれる。あくまでその日だけだが。
 そして勝ったチームや入賞した人には豪華商品がもらえる。もっとも、期待する人間は一人も居ないのだが。
 その理由はと言うと、すべて百円ショップで買った商品だからだ。そう。『賞品』じゃなくて『商品』。先生はそう言ってケラケラと笑った。無性に腹を立たせたのは、何も俺だけじゃなかったはずだ。
 俺はサッカーを選んだ。今度の日韓ワールドカップの影響か、それともフランスワールドカップの熱がいまだ冷めていないのか、やけにサッカー希望者が多く、始めは弾かれるかと思ったが、何とかサッカーができる事に決まった。
「何だか最近、俺って不幸?」
 慰めを求めているのだろうか。龍二は机に突っ伏した。龍二は、ものの見事にどの種目にも参加する事が出来なくなった。スポーツがあまり得意じゃない集団の輪に入り、ひたすら応援をするだけとなった。
「いいじゃねぇか、応援。有る無しだと選手の動きも違うもんだぜ?」
 俺は苦しい慰めの言葉をかける。
「けどよ〜」
 行動派の龍二にとっては、やはり辛い事なのかもしれなかった。
「潔く諦めろ」
 賢吾が龍二の肩を叩く。
「俺だって応援なんだ」
 だがそれでも、龍二は納得がいかないと言った表情だった。
「男の子なんだから潔く諦めなさい」
 龍二の態度に、近くを通った薫が、腹を立たせたように言う。
「女子はみんな無条件で応援に回されるんだよ。やりたくたって出来ないんだから」
 さすがは女の子。男よりも精神的に早く大人になるって言うのは、まんざらウソでもなさそうだ。薫のセリフには、かなりの説得力があった。俺まで感心してしまう。
 薫の言葉で、龍二は逆に応援にせいを出すようになった。進んで応援団長を務め、練習なのにも関わらず、他のクラスよりもかなり大げさな応援を繰り広げていた。
 どこか怒りのこもったその応援は、だが意外にスカッとして気持ちのいいものがあった。
 さらにそれは、他のクラスを圧倒する効果も少なからずあるので、こっちのパスは上手く繋がったりもして、以前苦し紛れの言い訳として言った『有る無しで選手の動きが変わる』事は立証された。
 選手である俺も、応援団長である龍二も、身をもってそれを実感できた。


 練習期間の二週間が過ぎ、とうとう本番が始まった。全六クラスなのでトーナメント戦で試合が展開される。順調に試合は進み、俺のクラスは見事決勝まで持ち込むことが出来た。
 二年のサッカー部員は計十一人。単純な計算では一クラスに二人ほどとなる。だが残念な事に、五組にはその部員が一人も居ない。
 運動神経のいい人間が数人居るのだがそれでも現役のサッカー部員に比べたら劣る事は間違いない。つまり俺たちは、中には三人以上もサッカー部員の居るチームとも戦ったのだ。
 もっとも、サッカー部員だからといって必ずしもサッカーを選ぶとは限らない。
 おかげで決勝に関しては、部員は一人だけと言う、極めてフェアに近い試合が出切るはずだった。
 だがその一人と言うのが、県選抜に選ばれるほどの腕の持ち主だったらどうだろう。もちろん、敵うはずも無い。決勝で俺達は呆気なく負けてしまったのだった。
「相手が悪かったな」
 賢吾は試合が終わってすぐ、ベンチの方にやってきて言った。そこは俺も同感だった。
 ただ、簡単にインターセプト出切るようなボールをみすみす逃してしまった事が、悔しくてたまらなかった。
 可能性は十分にあったのだ。ただつまらないミスが目立った。それだけの事だ。
「でも楽しかった」
 チームメートの一人が言った。
 それにも同感だった。


 表彰式が体育館で行われた。総合優勝した二組の代表は、賞状とトロフィーを受け取り、本物のサッカー選手みたいにそれを高くかざした。
 間近で見るとトロフィーのいんちき臭さがすぐわかるが、遠くから見るとそんな事は無く、それを掲げる代表選手の姿はカッコよく、絵になった。
 さっきはあんな事言っていたが、今になって無性に悔しくなったのは、多分俺だけではないはずだ。
 続いて、それぞれの賞の授賞式が始まった。そう。『カッコよかったで賞』『沢山点を取ったで賞』『珍プレーだったで賞』等だ。そしてそれぞれ商品ならぬ賞品を貰うのだ。
 だがその商品もまさに『珍』そのもの。百円ショップで買った訳の分からない代物ばかりで、酷い場合は『たわし』だ。ある意味で、なんのひねりもないゴミ。
 さっきはあんな事言っていたが、今になって無性に負けて良かったと思ったのは、多分俺だけではないはずだ。


 西日で赤く染まった道は、必要以上に明るかった。影ですら、薄っすらと赤みを帯びている。こんな綺麗な夕焼けは久しぶりだった。
 たぶん冬という季節である事も、少なからず関係しているのだろう。
「綺麗だね」
 暫く会話の無かった帰り道。薫は何とかして話を盛り上げようと思ったのか、夕日を見てそう言った。
「あんなに綺麗な色をするんだね」
 はじめて見たと彼女は続けた。
 龍二は未提出のプリントやらなにやらのせいで居残り。賢吾は恵美ちゃんと雑談。と言う訳で、結局下校は俺と薫の二人だった。
 二人だけで居る事に、もう恥かしさは無くなりかけていた。むしろ、二人だけの時間がないと、自分が自分で居られなくなるような、そんな変な感覚にまで襲われるほどになってしまった。
 龍二や賢吾の隣にあった日常は二つに分裂し、その内の一つは、今や薫のとなりに移動しかけている。
 まだ日常同士が手を繋げるほど近くではないのだが、普通の声ぐらいならお互い聞き取れる程度の距離まで近づいた。
 そこまで自分で自覚しているのに、俺は彼女とまともに会話をしようとはしなかった。したくない訳ではない。でも出来ない。
 好奇心は羞恥心に押さえつけられ動きが取れない。そんな状態。
 好奇心と羞恥心を天秤にかけた時羞恥心の方に大きく傾いてしまっている。そんな状態。
「今日、悔しかった?」
 俺の顔を覗き込んで、彼女は言った。
「何が?」
「試合。負けちゃって悔しかった?」
「別に」
「ほんと?」
「賞品があれじゃ、むしろ負けて良かったって思うよ」
 俺は正直な気持ちを言った。
「でもそのわりには頑張ってたね。ディフェンス」
 今日の試合、俺はディフェンスだった。攻めるのが得意じゃないのが一番の理由。付け加えるとすれば、わりと勘が当たる方だからインターセプトの成功率が高いのだ。
 もっとも、それを立証できる物は何一つ無いのだけど。結果的に負けてしまったし。
「ちょっとカッコよかったかも」
「……は?」
「勇ちゃんの頑張ってる姿。すこ〜しカッコよかった」
 薫は『すこ〜し』の所に力を入れた。
「……残念だったね。頑張ったのに」
「終わった事だし、今さら何言っても始まんないって」
 俺は続けて言った。
「『勝つ事が全てじゃない。結果よりもその過程に意味がある』。昔通ってたサッカースクールのコーチがよく言ってた」
「今回のその過程に、意味はあったの?」
「あったさ。口では上手く言えないけど、きっとあった」
 そう信じてる。あえてそこまでは口にしなかった。
「……そっか」
 薫は静かに微笑んだ。
 暫く歩いていると、小さな川を渡る橋に差し掛かった。その周辺は一面田んぼだらけで、とても開けた場所になっている。
 風を遮る物は無い。だから、橋の下を流れる川の水から湧き上がる冷気を拾った風が、俺達を襲うのだった。
「今日は手袋してんだな」
 薫が手を顔の前に持って来た時、初めてそれに気がついた。
「少し残念だな」
 何気なく俺は呟いた。
「私の手は、いつでもフリーだよ」
「手袋はとても優れたディフェンダーだ」
「はたして勇ちゃんは手袋をぬく事ができるのか」
「レフェリーが見てなければファールにはならないのだよ」
 そう言い、俺は無理やり彼女の手袋を取った。薫の細い左手の指に、温もりを感じる。イヴの時とは、何もかもが正反対だった。
 温もりも。あと、強引さも。
「レフェリーが見ていても、これはファールにはならないでしょう」
 薫は言った。頬が仄かに赤くなっているのは、西日のせいだろうか。
「やけに気前のいいレフェリーだな」
 俺が微笑すると、彼女も微笑した。
「でも、今日の私は心の冷たい人よ」
 薫は続けた。
「いつレッドカードを出そうかなって、今必死になって考えてるもの」
「……ウソだよ?」
 俺は、今度は腹を抱えて笑いたくなった。
 それを必死にこらえる姿は、逆に他人を笑わせる効果がありそうだと、自分でも思ってしまう。
 でも、薫は笑わなかった。キョトンとしている。
「『手が暖かい人は心が冷たい』ってやつ、大嘘に決まってんじゃん」
「……どうしよう。ものすっごく信じてた」
 もう限界だった。俺は思わず噴き出し、腹を抱え笑った。それこそ、自分でも恥ずかしくなるほど、ゲラゲラと笑ってしまったのであった。
「そ、そんなに笑わなくてもいいでしょ!!」
 薫はほんとに怒ってる様子だった。
「でも、つまりそれは篠原の心は温かいかもしれないって事だろ?」
「……もういいよ」
 と言ってそっぽを向く彼女が、いつもよりも幼く見えた。
 風が吹き、彼女のセミロングの髪を撫でる。同時に、再び俺の手に温もりが伝わった。
「可愛くない奴」
 でも、そんな所が可愛い。
 そんな所が、薫らしい所なのだ。
「……」
 薫は相変わらず黙ったままだった。でも、その手は嘘をついていなかった。
 そして俺も、手は嘘をつかなかった。

 続く

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