初めて来た人へ

―第二十二話―

 三月に入って二度目の休日が過ぎた。高二の勉強過程もほとんど終了し、科目によってはもう三年の授業を開始しているものもあった。
 終業式を一週間後に控えたその日、朝のホームルームで先生が、薫のかなり遅い退学報告をした。この日まで引き伸ばしたのは薫の要望だったそうだ。周りの友達に変に意識されるのは嫌だから。薫は休み時間、俺にこっそりとそう言った。
 その友達は、皆信じられないと言わんばかりに焦っていた。そんな風に見えた。無理もない。もう一週間もすれば、薫はこの日本から旅立ってしまうのだから。今の時代は、それこそメールと言う便利な物がある。だが本人に会えないのは辛い。それは、他ならぬ俺が一番よくわかっていた。
「いつ決まった事だったんだ?」
 窓の側で派閥を作りたむろっていた俺に、同じ派閥で、そして去年今年と同じクラスだった高野が言った。
「先月の頭ぐらいだったかな」
「こういうのって、彼氏とかに限ってギリギリまで報告を引き伸ばすって思ってたけど、実際は違うもんなんだな」
 俺は頷いた。
 そしてクラス全体を軽く見渡してみる。やっぱりクラスの中の誰かが居なくなる、と言う事は、例えこの空間内の付き合いだけだったとしても、悲しい事なのかもしれなかった。普段ならやかましい過ぎるほどの女子グループのいくつかも、心なしか暗かった。
 風が吹いたのか、背中の窓がカタカタとほんの少しだけ揺れた。俺は外を眺めてみた。校庭の木々が風に揺られ、その枝や幹をしならせていた。でも空は綺麗なほどの水色をしていた。雲が風に流され泳いではいても、晴天。春先らしい晴天だった。窓越しに、太陽の包み込まれる様な温かさが伝わってきた。まるで薫を抱いた時のような、人の温もりに似ていた。
「引きとめよう、とかとは思わなかったのか」
 高野は言った。俺は、小さく溜息をつくと、窓の外へ向けられていた視線を薫に戻した。
「思ったよ。ぶっちゃけ、二人で出かけたバレンタインの日に、そのまま駆け落ちしようとした事もあった。でも、それは単に現実逃避で、結果的に一番迷惑がかかるのは薫自身と薫の両親なわけでさ」
 俺は続けた。
「出来ることならこれからも先、同じ大学行って、色んなとこ行って、結婚して子供作って、とかしたかった。ずっと前から考えてた事だったんだよ、それ。でも、薫がフランスへ行くのを止めてまでそれをしようとする事って、ただの強制だろ。迷惑の伴う強制でしかない。薫の事は好きだけど、俺と薫の間に『強制』とか『束縛』とか、そう言うのっていらないんだ。あっちゃいけないんだと思う。だって、恋愛ってもっと自由なものだろ? 恋愛に『強制』とか『束縛』を持ってきてダメにするぐらいなら、辛いけど薫をフランスへ行かせてやりたかった。別に今生の別れって訳じゃないしさ。薫も親説得して、一、二年したら必ず日本に帰ってくるって言ってたし。ならやる事は一つしかないだろ。薫がフランスへ行くまでに、お互いがしたい事を沢山する。沢山しあう。それの方が、必死こいて薫を引き止める事より、大事だと思った」
 そういい終えた刹那、薫が俺の視線に気が付き、小さく笑った。「まいったな」と言っているようにも見えた。彼女のその微笑みに、悲しみはほんの少ししかないように思えた。
「……大人だねぇ。俺がお前だったら、たぶんそのまま駆け落ちしてたね」
「無理だって。駆け落ちを止めたのは他ならぬ薫だし。お前、尽くすタイプだったろ?」
「知らねぇな。んなの、ケースバイケースだって」
 高野は笑った。それにつられ俺も笑ってしまった。猫の様に気まぐれな高野。彼は、この二年の高校生活で出来た、龍二、健吾に次ぐ親友の一人だった。


 彼女が日本を発つ一日前に、俺と薫、そして賢吾に恵美ちゃんに龍二の五人で出かけた。出立の準備を既に終えていた薫の提案だった。
 出かけた所と言えば、地元のボーリング場やカラオケ、宴会の席を予約した焼肉屋と、軒並みオーソドックスな場所ばかりだった。でも、重要なのは意外性ではない。薫が生まれ、すごしてきたこの街だからこそ、地元の行きなれた場所でお別れ会を開く事に意味があった。
 焼肉屋の席で俺たちは、地元で出会い、共に育ち、友情や愛を育んできた事を細かく思い出しながら、思い出に浸った。でも、けっして悲しい気持ちにはならなかった。
 不思議な事だ。同時に、俺はこの日、別れは終わりではない事を知る事が出来た。別れは、翻せば新たな始まりの為の準備。その猶予期間は大切だし必要だ。人生には、なにかとそのモラトリアムが付きまとう。今日はその為の前夜祭といっていいだろう。
 その前夜祭も、午後の十一時過ぎには幕を閉じた。まだ少し早い気もしたけど、薫の事を考えるとあまり遅くまで遊び歩くのはよくなかった。
 俺たちはわざと遠回りをして高校へ向かい、その正門から五人そろって家路を辿った。夜遅くとは言え、久しぶりの五人そろってでの下校。毎日通りなれた道でも、新鮮に思えた。
 月明かりと街頭の下で、五人で横一列に並び手を繋いだ。三月の夜はまだまだ肌寒く、吐く息は白い。でも繋いだ手は温もりを伝え合い、隣に人がいる事を実感させる。もう当分こうする事はできない。だからこそ、次にこうする事が出来る日を心待ちにしたい。それこそが、何かを待ち望む、と言う事なのだと思った。
 やがて恵美ちゃんの家が見えてきた。家の一階からは明かりが零れていた。その時は、皆で薫を家まで送ってから各自の家路につくものと思っていたから、俺を始め皆でそこを素通りしようとした。だが、そんな流れの中で、恵美ちゃんは一人足を止め言った。
「……ごめんね。私もう家に帰る」
 薄暗い中で、彼女はやや俯きぎみになって言った。賢吾が心配そうに彼女に声をかける。
「……恵美、大丈夫か?」
「うん。平気だよ。ただ明日の見送りも早いし、早めに寝ておこうかと思って」
「恵美ちゃん……」
 友人として、薫も心配になったのかもしれない。恵美ちゃんに近寄って様子をうかがった。
「ついていてやらなくても平気か?」
「大丈夫だよ賢ちゃん。そこまで私弱くないよ」
 そう言って俺達に笑顔を見せた。賢吾は「そうか」とだけ言った。
 結局そのまま俺達四人は恵美ちゃんと別れまた歩き始めた。別れ際の恵美ちゃんの物悲しそうな表情を目にした後だからだろうか。場の空気が、少しだけ暗く重々しかった。
 そして十分と経たない内に、賢吾や龍二とも別れるはめになった。たった一つの外灯が照らす十字路。そこを真っ直ぐすすむと賢吾の家が、左に曲がると龍二と俺の家が、右に曲がると薫の家がある方へ道が続いていた。
「お前はどうすんだ?」
 賢吾が俺に言った。
「薫を家まで送ってくよ」
 あえて答えなくても、賢吾や龍二には俺がそう答える事を分かっていたはずだ。
「いいよ。一人で帰れるよ、私」
「良くないよ」
 薫の言葉をさえぎって俺は言った。
「今日中に話したい事、まだ沢山あんだから」
 薫の手を握る俺の手に、少し力を入れた。薫はその手をしっかり握り返してくれた。
「……なら、俺らはお邪魔ムシだな」
「確かに」
 龍二が両腕を頭の後ろに回し言うと、賢吾はそう続けた。そして、少しずつ俺達から距離を取り、放れていく。
「また明日な」
 賢吾がそう言うと、二人はそれぞれの家路を辿った。その悲しげな背中が、少しずつ闇へ吸い込まれていくように、いつしか彼らの姿は見えなくなってしまった。
 暫く二人でその場にたっていた。特に何か言うこともなく、ただただ彼らの姿と共に確実に遠退いていく何かを心で感じ取っていた。
 ふと、腕が引っ張られた。自分と手を繋いでいる薫の顔を見た。
「私たちも、行こっか」


 暗い夜道に、半分壊れているのだろうか、淡い外灯がポツリポツリと道を照らしていた。静かな空間だった。聞こえる音は、二人の足音だけだった。
「……話したい事が沢山あるんじゃなかったの?」
 ふと薫は言った。
「ん……あ、いや……」
 正直あったはずだ。はずなのだ。けど、いつの間にか頭の中は真っ白で、この現実だけ概要に浮き彫りになっていて、それに押し出されるように言葉の引き出しの中はカラになっていた。
「……ごめん」
 俺は続けた。
「ただの口実だよ。薫を家に送ってあげたいが為だけの」
「……やっぱり」
「やっぱり?」
「だってすんごい必死だったんだもん、勇ちゃん」
「ああ。やっぱり?」
「うん、やっぱり」
 何がおかしいのだろうか。俺も薫も、二人して小さく笑った。
「そういえば勇ちゃんさ」
「ん?」
「バイト代と借金でなに買ったの?」
 薫は興味津々と言わんばかりに俺に問い詰めた。
「今はまだナイショ」
「日本を出るまでには教えるって言ってたじゃん」
「うん。でも、今日はまだだめ。明日な」
 彼女は少し納得がいかない様子だった。「ふ〜ん」といって、視線をもとの方向へ向けた。
 やがて彼女の家が見えてきた。薫は家の門の前で振り返った。
「今日はありがとうね。楽しかった」
「そいつは良かったよ」
 そう言って、二人して小さく笑った。こうしていられるのも後僅かなのかと思うと、この上なく悲しくなってきた。
 でも、涙を流してはいけない気がした。それは今この瞬間にしろ明日の空港での見送りの時にしても同じ。別れだが、終わりじゃない。別れだが、始まりだ。始まりに、涙はいらない。
「ねぇ薫」
 俺が小さく声を漏らすと、彼女は微笑のまま「なに?」と聞いてきた。
「キスしていい?」
 彼女から言葉は返ってこなかった。俺はそっと彼女の顔に自分の顔を近づけ、薄く目を閉じた彼女の唇に自分の唇を重ねた。


 翌日の薫の見送りは、想像以上に華々しかった。それは、薫がどれだけ周りから愛されていたのかを表すのには十分すぎるほどだった。
 クラスの女子の三分の一が集まり、それ以外にも以前クラスが一緒だった子、どこからか情報を聞きつけてきた、同じ中学の子。その中には、あの吉田さんもいた。
 そのほかの人も含め総勢で何人いるかなんて数えるのが途中で面倒になった。最後にカウントしたのは十一人。それでも、まだ両手の指の数じゃ足りなかった。正直、空港で働く職員や他の利用者から見ればいい迷惑かもしれなかった。でも、今日だけはそれも許される気がした。
 薫は、涙を流さなかった。周りの子は、各々別れの言葉を済ませると静かに涙を流すのに、薫は涙を流さなかった。無理をしているわけでもない様子だった。むしろ無理をして涙を堪えるぐらいなら、声をあげて泣いてでもくれたほうが良い。そう思った。
「ほれ。なにぼぅっとしてんだよ」
 突然バシッと背中を強く叩かれた。俺の隣に、自分よりいつの間にか半頭身も背が高くなっていた龍二がいた。
「みんな挨拶は済ませてんぞ。早くしねぇと搭乗時間になっちまう」
 そう言われて薫の方を見た。いつもの微笑で、俺の方を見ていた。
「ちゃんと持ってきたろうな」
 賢吾が小声で言った。俺は着てきたジャケットのポケットの中にあるそれをしっかりと握り締め、「もちろん」と小さく言って薫のもとへ歩み寄った。
「……なんかあれだよね」
「……『あれ』?」
 俺が薫のもとへやって来ると、薫はそう言ってクスッと小さく笑った。
「こういう時に限って、何言えば良いかわかんない」
「確かに」
 俺も小さく笑った。
 それでもいいと思った。こうやって二人で笑っていられれば。言葉好くなでも、笑っていられれば、それでもよかった。
「……だから、一言だけ」
 そう言って彼女は一度俯いた。そして顔を上げ言った。
「行ってくるね、勇ちゃん。病気とかには気をつけてね。メールとか手紙とか待ってるから」
 本来は笑う所じゃないのかもしれない。でも、俺はクスクスと笑った。刹那、薫は焦ったように「なに?」と聞いてきた。
「一言って言ったじゃん。この欲張り」
 俺は続けた。
「でも分かった。向こうについた頃にまた連絡入れるよ」
「うん。分かった」
「薫も元気でな」
「うん」
 それを最後に、会話は止まってしまった。搭乗時間ももう間も無く。今こそ渡さなくちゃ。でも、そう思えば思うほど、体は動かなかった。
 あと少しなのだ。あと少しの勇気か、キッカケがあれば、一気に渡せる気がした。そう思った刹那だった。薫が、意地の悪そうな顔を浮かべ言った。
「私が向こう行ってる間に勝手に女作んないでよね」
「……作るわけねぇだろ?」
「それもそうか。勇ちゃん欲張りじゃないしね」
「……多分、そうでもない」
 そして続けた。今なら、渡せる。
「俺、ほんとは欲張りなんだよ。薫とずっと一緒にいたい、薫のそばにいたい、薫を人の物にしたくない、一分一秒でも多く薫を抱きしめていたい、一回でも多く薫とキスしたい」
 薫は、ほんの少し困ったような顔をしていた。そんな顔をしないでほしかった。確かに変な事を言っているのは俺だけど、本当に言いたくてしたい事は、そんな事じゃないから。
「だからさ……薫にはこれを……貰ってほしいんだ」
 そう言って、ポケットからそれを取り出した。紺色に輝く、いかにも上質そうなそのケース。そのふたをそっと開けて、薫に見せた。
 それは、友人に借金をしてまで欲しかった……指輪だった。
「……え?」
 薫はさらに困惑したように俺と指輪を何度も交互に見た。
「たいした金集まらなかったからたいした指輪じゃないけどさ、これだけはパチモンにしたくなくて……だから無理やりバイトのシフト入れて、無理に龍二達に頼んで金溜めて用意したんだ……」
 後ろから、微かに声が上がった。もともと少しうるさかった空港のホールがほんの少し騒がしくなった。
「薫が帰国した時俺が十八を超えてたら……すぐ結婚できるようにって思って……用意したんだよ……婚約指輪」
 俺はその指輪を、そっと薫の左薬指に通した。恵美ちゃんがこっそり指の太さを測っていてくれた事も助かり、サイズはピッタリだった。
 そして俺も、自分の左薬指にはめている同じ指輪を見せた。薫はそれを見ると俯き、おもむろに右手を添えた左手を顔の前まで持って来た。微かに肩が震えてた。
「……最後は絶対泣かないで別れようって思ってたのに……笑って別れよう、って思ってたのに……勇ちゃんのせいなんだから」
 俺は、何も言わずそっと薫を片手で抱き寄せた。密着して分かった。彼女は、微かに嗚咽を漏らしていた。
「勇ちゃんがカッコ良過ぎるから……ロマンチスト過ぎるから……だからなんだよ。ずるいよ……欲張りのくせに……」
 刹那だった。薫が俺にしがみ付く様に抱きついてきたのは。今まで我慢していたかのように、声をあげて泣いた。
 いや。まちがいなく我慢をしていたんだと思う。いくらまわりの人を大事にする彼女とは言え、本当は思う存分泣いて甘えたかったはずなのだ。
 俺は両手でしっかりと彼女を抱いた。
「待ってるから」
 俺は続けた。
「何年経とうと、薫が帰ってくるの、ずっとずっと待ってるから」
 薫は、俺の胸元に顔をうずくめながら、泣きながら、何度も頷いた。そんな彼女を見ていると何故だろう、俺も気がついたら泣いていた。一筋の涙が、ただただ黙って頬を伝っていた。


 一通り泣いた後、薫は「スッキリした」と笑った。俺もそれを見て、涙を拭った後笑った。結局、最後の最後は泣かずに別れられる。そう言ったら、薫は「結果オーライだね」と言ってまた笑った。
 搭乗時間になり、薫は両親と一緒に搭乗口の方へ歩き出した。何度か振り返っては何度も手を振り、けどいつしかその姿も無くなってしまった。
 薫達が乗った飛行機が、ゆっくりと動き出した。とうとう彼女は、この空港を飛び立ち、日本を去る。でも、やっぱり悲しさは多くはなかった。
 彼女に渡す物は渡せた。言いたい言葉もいえた。
『待ってるから』
 日本を去る彼女に自分の想いの深さを伝えるには、十分すぎる言葉を。

 続く

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