初めて来た人へ

―第二十一話―

 その話が持ち上がったのは三月最初の休日から三日ほど経ってからだった。寒い日と温かい日とが交互に訪れるようになってきた、そんな春先の屋上での事。俺と薫は、いつもの面子で昼食を取っていた。
「俺んちに行きたい?」
 俺は、薫が作ってきてくれた弁当を口にしながら言った。さすがは調理師の血を引く娘。彼女の夫となる人間はさぞ幸せ者だろう。
 と、あえて皮肉っぽく言ってみる。
「いつ」
「明日」
「急すぎるよ」
 そう突っ込むと、彼女は小さく笑った。
「だいたい明日学校あんだろ」
 仮に俺の家へ来る事になったとして、学校が終わってからだと遅い気がした。家に帰る頃にはもう七時を過ぎている。親も居る訳だし。
「じゃ、学校サボろ?」
 あっけらかんと言う薫が少し怖かった。
「ったく」
 俺は溜息をつき続けた。
「サボってまで俺の家に行きたいその理由は何?」
「猫が見たいの」
 薫が学校をサボってまで俺の家へ行きたい事に納得がいった。
「勇ちゃんち猫飼ってるの?」
 恵美ちゃんは言った。賢吾から聞かされているものと思っていたため、彼女にはその話を一度もした事が無かった。そしてその事に、今しがた気がついた。
「こいつが小五の時に拾ったんだよ」
 賢吾が俺に代わり説明してくれた。
「そういえば、賢吾は前にひっかかれた事があったっけな」
 と龍二。
「あったあった。目があった瞬間フーフー言われて飛び掛ったんだよな」
「その話はすんなよな」
 俺が言った後間髪いれず賢吾が言った。彼自身、あまり知られたくない話だったようだ。顔が少し赤かった。対する恵美ちゃんは、彼の弱みを握ったといわんばかりに、微かに勝ち誇った顔をしていた。
「私も見たいな〜」
 その恵美ちゃんの言葉に、何のためらいも無く薫は賛同してしまった。俺は二人の暴走を急いで止めた。
「悪いけど恵美ちゃんはちょっと……」
「大丈夫。冗談だから」
 俺が恐縮気味に断ると、彼女は小さく笑って言った。
「じゃぁ決まりだね。明日は学校サボって勇ちゃんち」
「その代わり条件がある」
 薫が俺の家へ来た事が無いのと同じで、俺も薫の家へいった事が無かった。薫がフランスへ発つまでそう時間は残されていなかった。
「明後日は薫の家な」
「オッケー」
 そう言って彼女は笑った。


 翌朝俺の家の前で待っていた薫と、俺の両親が仕事へ出かけ家から居なくなる時間まで、近くの公園で暇をつぶした。
 薫も俺も小学校から今までずっと、学校を故意にサボった事は一度も無かった。ちょっとした緊張感を味わいながらも微かに感じる罪悪感。でも、それですら逆に気持ちがよかった。
 少しばかり冷え込んだ公園で他愛のない会話を始めて三十分ほどがたった。そろそろ二人とも出かけただろうと思い、早速自宅へ向かった。
 俺が生まれた時からずっと暮らしてきた4DKの貸家。薫の家に比べるとすごく貧相で、恥ずかしさでさえ込み上げてきた。
 家に入ると、右手には和室へと通じる襖、正面には階段と、台所へ通じる短い通路、左手には洗面所へ通じるドアがある。俺はまず薫を連れ居間へ行った。猫がその一日の大半を過ごすのは居間だった。
 居間の中央にあるコタツの中をめくってみた。ついてはいないが、まだ微かに温かかった。そしてそこで丸くなる黒い生物が、何事かとその黄緑色の眼球を光らせた。
「おいで〜。ジジ〜、おいで〜」
 コタツに潜り込んで猫の名前を呼んだ。後の方で、薫が笑った事に気がついた。
「『魔女の宅急便』?」
「そ。やせっぽっちの黒猫だからピッタリだろ?」
 俺はそう言いながらジジを引っ張り出した。せっかく気持ちよく寝ていたのに無理やり起こされ、さぞ迷惑だっただろう。
 情けない姿で宙に持ち上げられているジジを見て、薫は「可愛い〜」と声を上げた。そして何度もジジの頭を撫でた。
 ジジは不思議と人見知りを全くしない猫だった。猫は普通始めて見る物や動物に対して非常に警戒するはずなのだが、当のジジは、頭を撫で回す薫の手に自分の頬を何度もすり合わせ、時には指先をなめた。なめられる度に、薫は微笑みながら「くすぐったい」と言った。
 いつまでも持ち上げている訳にもいかなかったので、俺はジジを床におろした。俺の手を離れたジジは、一度だけ俺の手に頬を擦り付けるとそのまま薫の下へ寄って行った。
「気に入られてるみたいだな」
「ほんとに? うれしい」
 薫は「良い子良い子」と言いながらジジの顎を指先で撫でる。
「……でも変だね」
「なにが?」
「だって賢ちゃんは目があって速攻引っ掛かれたんでしょ?」
「きっと気分屋なのかもしれないな」
 ジジは「ニャ〜」と鳴いた。「猫ってたいがいそうだと思うよ」と薫が言うと、ジジは再び鳴いた。


 ジジを二人でじゃらしながら、テレビを見て笑ったり他愛ない話をした。昼前のテレビを話題にして薫と喋ったのは、これが初めてだった。
 ジジは最初こそ鬱陶しそうにしていたが、今ではもう薫の持つプラスチックの猫じゃらしの虜だった。フワフワとした綿をその手中――猫は前足と後ろ足なのだが――に収めようと前足を伸ばすも、つかむ寸前で薫がわざとらしく引き離す。そしてまた別の場所で小刻みに動かし、ジジを誘惑する。
 ジジは幾度と無く体を転がした。時には横になった状態から飛び上がる事もあった。とにかく、ジジのその軽やかな動きは、見ていてちっとも飽きなかった。
 薫がこんなにも猫好きだった事を始めて知った。或いは、単に小動物が好きなのかもしれない。だがどちらにせよ、薫は俺がまだ知らない物をいくつも持っている。それをすごく実感した。
 俺の知らない薫の一面を全て知りたかった。知り尽くしたかった。俺と本人しか知らないプロフィールを持った彼女と、俺の視点で広がるこの世界で、ずっと一緒に居たかった。
 気がつくと、ブラウン管の向こうから聞きなれた歌が聞こえて来た。同時にタモリさんが登場。いつも通りのサングラスを光らせ、独特のマイクの握りで。時計を見ると針はもう十二時を刺していた。
「昼か……」
「お昼だね……」
 会話が途切れた。ジジはやっとの思いで猫じゃらしをその手中に収め、口に銜え何処かへと歩いていった。
「そうだ」
 と薫は言った。
「台所借りて良い?」
「昼飯つくんの?」
 薫は頷いた。俺は心底嬉しかった。ずっと弁当ではなく、もっとちゃんとした食事を薫に作ってもらいたいと言う願望が密かにあったからだ。
 薫は、俺が中学の時に作ったエプロンを借りて着ると、さっそく冷蔵庫の戸をあけ中を見た。薫のエプロン姿、と言うだけで、なんだか異様に嬉しかった。紺の無地で、なんの飾り気もないエプロンなのだけれど。
 適当に食材を取り出すと早速調理に差し掛かった。食材たちはその姿を見る見るうちに変えていき、少しずつ料理になっていく。何とも手際がよかった。薫は鼻歌を歌いながら楽しそうに料理をしていた。もはや彼女は自分だけの世界に入り込んでいるようだった。
 俺は家で料理なんかしないから冷蔵庫に何が入っていたのか分からない。だが少なくとも、目の前に広がる昼食を、俺の家の冷蔵庫の中身のみで作れるのは、薫だけに違いなかった。
 その大量の昼食を薫と一緒に食べた。あまりにも味が良いので、量が多い割りには短時間で平らげられた。最初こそ作りすぎたかもと言っていた薫も、無我夢中に食べる俺を見ると、何が面白いのかプッと小さく笑った。
「美味かったけどもうダメ。何も入んない」
 俺は椅子に寄りかかって言った。
「やっぱり作りすぎたかもね」
 薫は空になった皿に目を向け続けた。
「味も少し濃かったかも」
「そう? 俺はちょうど良かったと思うけど」
「味は少し薄いぐらいの方がいいんだよ。素材の味も生きるし、何より健康的」
「俺は濃い派の人間だからね」
 俺は笑った。
「薫も見たでしょ? 中学ん時、俺が御浸しに醤油をドボドボかけて食ってたの」
「正直あり得ないって思ったよ。塩分の取りすぎ」
「もう既に生活習慣病になってたりね」
 薫は苦笑して「冗談に聞こえない」と言った。俺もそれについつい同意してしまった。特に心当たりがある訳では無いのだけれど。


 昼食に使った食器を洗うと、そのまま二階へ上がった。俺の部屋は、人一人入れる程度の狭い階段を上がってすぐ右側にある。
 六畳間の狭い部屋。だが、押し込められたように並ぶ家具の分を引くと、三畳あるかないかの部屋だった。
 アーティストのポスターが貼られている以外なんの飾り気のない部屋で、薫はある物に気が付きそれを指差した。部屋の奥のロフトベッド。その下にせまっ苦しく収まっている学習机の脇に立て掛けてある黒い物。上部が細く下部がひょうたんの形をしたケースだ。
「もしかしてギター?」
 彼女の問いに、俺は頷いて言った。
「親父のをずっと借りっぱなんだ。中三の終わりぐらいからちょこちょこ練習してた」
 薫は「ふ〜ん」と言いながら、そのケースを持ち上げた。
「どうりで上手な訳だ」
「なにが?」
 俺は聞き返すが、彼女は白を切るだけだった。ただ心なしか、頬が仄かに染まっていた。
 薫はそのままケースを俺に渡し、「弾いて」とだけ言った。こうなる事は予測の範囲内だった。俺は一言も返さず、ケースからギターを取り出して学習机の椅子に座った。
 昨日の夜も軽く弾いたからチューニングはあっているはずだ。だが俺は軽く弾いてみてもう一度確認してみた。だが結果は杞憂。なんの問題もなかった。
 最初は軽くリフをいくつか弾いてみた。名前はよく覚えていないけど、ビールだかコーヒーだかのCMで流れていた曲のリフだと親父は言っていた。薫は音にあわせ体を軽く揺らしていた。時々鼻歌を交えながら。
「上手だね」
 薫が言った。俺は、もう少しカッコいい俺を彼女に見せてやりたいと思った。下らない下心。だけど、どうしても彼女に送りたい曲があったのだ。
「もう少しレベル上げてみようか。バラード弾いてみるね。ギターだけじゃオリジナルよりしょぼくなるけど……」
「いいよ。聴かせて」
「じゃぁ最初のサビまででよければ」
 そう言うと俺は静かに指を弾き始めた。そして静かに歌い出す。『バックストリートボーイズ』の『All I Have to Give』。俺の実力では、薫の好きなロック系の激しい曲が弾けないのが痛いけど、この歌はこの歌で、俺のお気に入りだった。
 ギターを弾き終わると、薫はそっと俺に近づいてキスをした。長く、そして時々舌を絡めたキス。それが終わると、ロフトベッドに敷いてあった布団を床におろし、そのままそこでセックスをした。久しぶりに触れた彼女の体は、暖房のきいた部屋の温度も手伝ってか、まだ何もしていないのに少しだけ火照っていた。
 俺が先だって彼女を抱いたかと思えば、次にはもう彼女から俺を押し倒した。いつになくハードだったけど、まだ昼間だと言う事と俺の家だと言う事が俺達を解放的にさせた。
「『僕の愛はすべて君のものだから、君が居なけりゃ生きていけないんだ。この世界を君に捧げられたらいいのに。でも愛ならすべて君のために捧げられるよ』……か」
 布団の上で俺の腕を枕にしていた薫は、バックストリートボーイズの歌詞の和訳を音読した。改めて日本語で聞くと、少し気恥ずかしかった。
「良い歌詞だね……。本当に上手だったよ」
 俺は「ありがとう」とだけ言い、薫の頬に軽くキスをした。
「でも意外」
「何が?」
「勇ちゃん、英語の発音がすごく良いんだもん」
「これがフランス語だったらね」
 そう言うと、薫は哀しい顔をした。俺は「ごめん」とすぐに謝る。哀しい顔をしたままの薫は、寝返りを打って顔を俺の方へ向けた。俺が軽く彼女の頭を撫でてやると、薫は小さく笑った。俺もそれに返すように小さく笑った。
「……なんか意外の連続だったな……」
 ふと薫は言った。
「勇ちゃんのこと、沢山知ってるようでまだまだ知らない事がいっぱいあった」
 そう言うと、薫はのそのそと体を動かし、あお向けの俺の上に体を持ってくる。彼女の控えめな乳房が俺の胸元に当たり、ほんの少しだけその形を変える。同時に至近距離で彼女と目があった。いつもの薫より、大人び顔をしていた。顔が火照って赤らんでいるからだろうか。
「……明日は薫んちで……薫の意外を沢山教えろよ」
 そう言うと、薫はクスッと笑った。けど、その笑みはいつもの彼女らしい、可愛い笑みではない。嬌笑だった。俺は首を傾け顔を少し動かして、薫と唇を重ねた。まるで洋画のベッドシーンのような、濃厚なキス。薫は俺の顔に手を付き、引っ切り無しに舌を動かした。俺もそれに合わせて舌を動かした。


 まず驚いた事は、薫の家に薫のお母さんが居たことだ。普段の生活で家に居る分にはなんの問題も無いが、今日と言う日は別だ。なぜなら、俺と薫は二人して学校をサボり、こうして薫の家に居るのだから。
 そして、驚いた事はそれだけではなかった。薫は、家に母親が居る事になんの焦りも感じていなかった。それはつまり、薫は今日、それも午前九時という朝に、自分の母親が自宅にいると言う事を知っていた、と言う事になる。ましてやその母親も、普通ならば学校にいる時間に彼氏を連れて帰ってきた娘に対し、なんの怒りも感じていない。
「……あれ?」
 俺は混乱していた。
 俺はてっきり、今日の事を踏まえ、適当な言い分で母親を出かけさせたものと思っていた。でも、その当たり前だと思っていた予測が、一言で崩れ去ったのだ。「いらっしゃい、海野君」の一言でだ。
「あの……えっと……その……あれ?」
 俺は冗談抜きでそう言って、玄関先で横に並ぶ薫と薫のお母さんとを交互に見た。二人は顔を見合わせると、何が可笑しいのか小さく笑った。俺はその様子を見てさらに混乱し、同時に異様な恥ずかしさを覚えた。
「今日の事は薫から聞いていたの」
 薫のお母さん――香(かおる)さんは言った。
「もちろん昨日の事もね。別に悪い事をした訳じゃないし、事情が事情だし。好きなだけゆっくりして行ってね」
 以前にも言ったけど、この親にしてこの子あり、だった。さらに、性格だけではなく名前もまた然りなのだから驚きだ。
 香さん曰く、薫の名は、本来ならば自分の名前をそのまま使う予定だった。それほど香と言う名が気に入っているらしい。しかし、同じ漢字を自分の子供の名前につけるのは日本ではNGなので、薫は『薫』と言う字にしたらしい。同じ読み方の名前をつけるだけでも十分珍しい事だが、これほどまで性格が似ているのもまた珍しかった。
 俺は昼食時まで薫の部屋にお邪魔する事にした。もちろん最初からそのつもりだったけど。ただ、香さんがいる事は全くの計算外で、自分の中で組み立てていた今日の日程が悉く崩れてしまった。だから正直彼女の部屋にいても少し気まずかった。
「……けど驚いた」
 俺は、その場の空気に耐えかね、何とか搾り出した話題を振った。
「漢字こそ違うけど、薫と名前まで一緒なんてさ」
「昔はよく同一人物に間違えられたんだ。親戚に」
 そう言うと彼女は微笑した。そしてすぐ、俺の言葉の隠れた意味に気がついたようだ。
「『まで』って言う事は、他にも何か一緒の部分があるの?」
「性格。香さんとそっくり」
「そうかな」
 俺は頷いた。
「薫もあんなお母さんになるのかな」
 俺がボソッと呟くと、薫は小さく噴き出して笑った。

 続く

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