初めて来た人へ

―第二十話―

 翌日、学校の昼休み。俺と薫、龍二に賢吾に恵美ちゃんは、屋上で昼食を取った。
 久しぶりに五人が集まった。まだ薫と俺の間での問題が解決するまでは、集まっても気まずい雰囲気でいっぱいだったから集合する事は少なかったが、今はもうそんな事はなくなっていた。
 ある意味で、俺と薫は変な目で見られていた。ついこの間まで寂寞でいたわしかっただろう俺達が、今となってはお互い愁眉を開いたようにいつもの笑顔で会話をしているのだ。
「何かあったの?」
 と、恵美ちゃんはどこか心配そうに俺と薫の様子を交互にうかがった。
 俺と薫は、お互いに顔を見合った。そして彼女が小さく頷いたのを確認すると、小さく深呼吸し言った。
「……色々あったよ」
 俺は続けた。
「つらい事の方が多かった。けど、それから逃げちゃいけないんだって事を、この歳になってやっと気づいた」
 目の前の三人は、怪訝そうに俺を見ていた。俺と薫はまたお互いの顔を見合って小さく微笑んだ。形骸ではない、真の笑み。
 相変わらず怪訝そうにしている三人に、そしてとうとう首をかしげた三人に、俺たちは今までの事を話し始めた。
 不思議と心に迷いはなかった。あの時は、辛さのあまり途方に暮れていたり変に自責したりしていたのに、今となっては何の事も無い、通過した過去の事として淡々と語れた。
 三人に少しずつ事実を打ち明けると、彼らの表情はみるみる愕然としていった。当然だった。三人には、薫がフランスへたたねばならない事すら話していなかったのだ。
「なんでお前、俺らに黙ってた」
 いつもは陽気な龍二は、いつになく真剣な眼差しだった。どこか憤りを感じるその双眸を、俺は直視した。直視しなければならなかった。友として。
 彼のその目と言葉から、彼や彼らが言わんとする事はすぐに察する事が出来た。
 いつも俺と薫は、二人の間で起きた問題を二人だけで解決してきた。どんな些細な事も、そして今回のような二人の行く末を左右するような問題も。
 薫と付き合うようになってから、できるだけ周りに迷惑がかからないよう行動してきた。干渉されるのが嫌なわけではなく、ホント単純に、俺達で解決できる問題は俺達で解決したかった。
 けど今やっと、その行動が逆に迷惑だったという事に気がついた。
「俺ら友達だろ。相談の一つや二つしてくれたっていいじゃねぇかよ!」
 そう声を荒らげた龍二の顔は、気色ばんではいたがそれが全てではなかった。
「黙ってた事は悪いと思ってる。けどみんなの助けを借りないで、自分がどれだけ大人なのかってのを、どうしても知りたかった」
 その言葉を、龍二の双眸を通し彼の心その物に直接ぶつけた。龍二は納得したのか小さく息を吐いた。「……ちくしょう」と小さく聞こえた。
「……俺と同じ思いをする人間がこんな近くにいるのに、俺は何もしてやれなかったのか……」
 そう歯を食いしばった彼が、なんとカッコ良かった事だろう。龍二と賢吾に出会えて、本当に嬉しかった。


 賢吾たちに、「俺たちは何をしてあげればいい?」と聞かれた。俺は「いつも通りの生活を送ってくれればいい」と答えた。
 薫はフランスへ行く。でも、それは一生涯の別れではない。いつかまた会えるのだから、今特別に何かする必要はない。
 薫にとって、今の日常こそが大事なのだ。フランスへ行けば、その日常が味わえなくなるから。
 だから今のこの状況、特別変える必要も、特別求める必要も無い。現状維持こそが大切なのだ。
 だから俺と薫は、いつものように学校へ行き、いつものように授業を受け、いつものように話しいつものように部活をした。下校中はいつものように手を繋ぎながら学校や部活の話をし、ちょくちょく短いキスをしながら帰った。
 当たり前の日常が『当たり前の日常』ではなくなる事を、何よりも恐れた。いつだって、作る事は難しいのに壊すのは簡単だから。
 だから、壊れないように自分に出来る事を精一杯こなした。
 この最後の一ヶ月。薫にとって、ごくごく普通の一ヶ月であるように、俺たちは努力した。


 けど、そんな日常が必要なのは薫だけな訳で、俺にいたってはまったくいつも通りではなかった。
「いいか勇樹」
 昼休みの屋上。龍二は身を乗り出して言った。
「篠原がフランスへ発つ前に、お前は篠原と婚約しろ」
 何を突然と思ったが、彼の目は本気だった。
「けどいきなり婚約って……。第一俺まだ十七だし」
「んなこたどうでもいいんだよ」
 と、龍二は続ける。
「それぐらいの事してやろうって気になんねぇのか?」
「まぁ、龍二の言う事は一理あるかもな」
 賢吾は言った。
「大体、婚約その物に年齢制限はないわけだし」
 とは言うが、今まで『婚約』と言う単語が思い浮かばなかったほど、その事実とはかけ離れた場所に俺は居たのだ。
 そんな自分がいきなりその事実に直面しても、どう対処して良いのか分かるはずも無かった。
「俺はどうすればいい?」
 だから、今は目の前にいる親友二人に頼るほか無かった。
 俺の問いに、二人は心なしか笑みを浮かべてくれたような気がした。
「婚約する為に、俺は何をすればいい?」


 バイトを始める事になった。近くのマクドナルドで平日二日と週末。平日は部活が終ってから直接行き九時まで。土日どちらも午後から夜九時ごろまで。
 とにかく金を溜めるように言われた。余裕を持って十万は溜めるように。
 もし足りなかったら賢吾達も寄付してくれると言っていた。だからあまり無理はするなと言われた。薫が発つ直前に体調を崩したら元も子もないからと。
 最初はなぜこんなにも金を必要とするのか分からなかった。
 でも、ただバイトを日常の一つとしてこなして行けばいい。そう自分に言い聞かせ、それなりに楽しいバイト生活を送っていった。
「どうして急に始めたの?」
 ある意味始めたきっかけである薫にその事を話したら、驚かれた。
「勇ちゃんって浪費家だっけ?」
「でも少なくとも貧乏性ではないけどな」
 俺は続けた。
「ある意味状況に流されたってとこかな?」
「どんな状況よ」
 不服そうに言い、視線を道の先へ戻した。
「土日遊べないじゃん」
「来月には少し休みいれるよ」
 次第に日が長くなった気がした。下校時刻が、日に日に夜から夕刻へと姿を変え始めていた。
 寒いのは相変わらずだったけど、手を繋ぎ一枚の長いマフラーを二人で巻いて寒さをしのぐのも、相変わらずだった。
「ごめんな」
 俺は続けた。
「ただでさえ時間無いのに、バイトとかやんなくちゃなんなくて」
「大丈夫。気にしてない」
「ほんとに?」
「でも、正直に言って。何で始めたの?」
「気にしてんじゃん」
 俺は薫の矛盾さに苦笑した。案の定、脇腹を小突かれた。
「いて」
「細かい事気にしないで教えてよ」
「ちょっと大金が必要になっただけ」
「だけ、じゃ無いでしょうよ。大金だなんて」
 少しの間を置いて彼女は続けた。
「もしかして、高校中退して私の後追うなんて考えてないでしょうね」
「いいね、それ。フランス語さっぱりだけど」
 また彼女に小突かれた。
「ウソだよ」
「知ってる」
「ウソとは思いたくないけどね。出来る事ならそうしたい」
「ありがと」
 彼女はそう言って微笑むと、小さく溜息をついた。白い白い吐息が闇へ吸い込まれたのを見計らって、俺は言った。
「大金て言っても、十万ぐらい」
「十分大金よ」
「でも、どうがんばっても溜まりそうに無いから、少しは賢吾と龍二に借りる」
「この歳で借金作るの?」
「作ってでも手に入れたい物があるんだ」
「何?」
「ナイショ」
 そう言って意地悪そうな微笑をした。
「時期が来たらちゃんと教えるから」
 不服そうにしている薫に俺は言った。
「少なくとも薫がフランスへ発つ前までには絶対」
 そこまで言うと、流石の彼女も、「絶対だよ」といって納得してくれた。
 目標十万円。『恵まれない子供に愛の手を』募金でもしたい気分だった。


 三月に入り最初の休日が訪れた。きっとその日までの日々は、薫にとって果てしなく長い日々だったに違いなかった。
 平日も出来るだけ彼女と一緒に居るようにしてはいたが、きっとそれだけでは満たされていなかったはずだ。
 今日はうんとサービスしてあげよう。そう思っていた。
「映画?」
「そ。一緒に見たい映画があるの」
「いいけど……その後は?」
 薫は首をかしげた。
「特に何も?」
 あっけらかんと言う。調子が狂った。
「映画だけ?」
「映画だけ」
「他に行きたい所とかは?」
 彼女はまた首をかしげた。どうやら特にないらしい。
 俺としてもとくに何の企画を立てていなかったのだが、彼女まで無計画だったとは思いもよらなかった。
「って言うかね」
 ふと彼女は切り出し、そして続けた。
「勇ちゃんと居れればどこでもいい」
 そう言ったときの彼女の笑顔は、すごく自然だった。誰にでも見せる、彼女にとって一番のナチュラルな部分。
 でも今のそれは、他の誰に対してでもなく、俺に対してだけ向けられたアイデンティティの主張。少なくとも今のその彼女の笑みは。
 そんな微笑みを真っ向から見せられた俺は、何をどうしたらいい?
 そんな事は最初から決まっていた。俺も彼女に対して、自分の一番ナチュラルな部分を見せ、ナチュラルな選択をする。
「行こうか、映画見に」
 ただ、それだけの事。
「うん」
 そっと差し伸べた手を握った瞬間に感じた薫の温もり。温かかった。とても、自然な温もりだった。

 続く

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