初めて来た人へ

―第十九話―

 無常にも、時間は流れていく。止める事の出来ない絶対の流れに従うまま、俺は一日一日を絶望といっしょに歩き続けた。
 どんなに頼んでも、『時』という神は聞き耳を立てない。彼は、オレ達に直接的干渉は絶対しない。そしてオレ達も、彼に対しての直接的干渉は絶対に出来ない。
 付き合い始めて三度目のバレンタインデー。辛いはずなのに、時の流れが早い気がした。
 俺と薫の間に、目立った変化もなく。二人が別れるという事実が現実の上で近づくにつれ、思考の中でそれは反比例して遠退いている感覚だった。
 身も心もその悲劇と苦痛になれたからなのだろうか。でも、少なくとも身も心もその悲劇と苦痛を受け入れてはいない。
 その日はちょうど学校も休みなので、二人で東京へ出る事にした。
 薫は以前から、服を自分でコーディネートするのが好きだと言っていた。着なくなったシャツやユーズドジーンズなどを、自分の感性を駆使して自分のオリジナルの服に生まれ返させる。
 世界に一つだけの、『自分』と言う名のブランド。オレもいつしか、薫の言う『自分』に魅了されていた。
 東京へ出た理由は古着屋を回るため。地方の古着屋とは違い、時おりブランド物の古着も売り出されている時があるからだ。
「勇ちゃんのも作ってあげようか?」
「ほんとに」
「リクエストがあればなんなりと」
 オレはしばらく店の中を探す。お世辞にも広いとは言い難い店内で、目当ての柄はすぐに見つかった。
 黄色ベースの服に描かれているせいか、少し派手に見える。
「この柄のイメージを崩さない程度に、全体的に渋めのイメージが出るよう作ってくれる?」
 彼女は少し困惑した表情になった。注文がやっかい過ぎたかな、と思った時、すでに彼女は口を開いていた。
「黄色だったら、黒系よりは茶色系とあわせた方がちょうど良いかな。黒だと余計派手になるし」
「もう出来上がりのイメージは出来てるの?」
「おおかた」
 そう言いながら薫は、茶色の無地のTシャツを手に取った。薫のセンスには驚かされる。
 レジで会計を済ませると外へ出た。外と中では当然のように寒暖の差が激しく、思わず体が震えた。
 薫はオレに、古着の魅力をありありと語った。
 古着独特の生地の解れだとか、そう言う物を邪魔とみるか個性とみるかでその服は生きもするし死にもする。ユーズドジーンズなんて言うのはその代表例だ。
「その解れの所に、もう着なくなったシャツの柄を裏から縫い合わせる、ってコーデの仕方もあるんだよ」
「いま薫がはいてるのも?」
「うん」
 そう言って彼女は、太ももの辺りの解れを見せた。そこには、何かのキャラクターが描かれていた。
 さすがに高校生にもなってこれは、と思うような柄だった。でも、こうして見ると逆に素敵だった。
「なんかカッコいいな」
「でしょ?」
 久しぶりに見た彼女のその笑顔。少し前まで当たり前のように見れていたそれが、今はとても希少価値の高い物へと変貌していた。


 昼過ぎからずっと古着屋を回っていると、あらかた目当ての物も買い揃える事が出来ていた。
 後は、軽くファーストフードで食事を取って帰るだけだった。でもそれだと、何か物足りない気もした。どうせ明日も休みなのだし、もう少し二人だけの時間を多くとりたい。そんな思いもあった。
「お台場の方へ出てみない?」
 オレの突然の提案に、薫は困惑した表情だった。
「何しに? なにかショップ回るの?」
「いや。観覧車、乗らね?」
「観覧車?」
「そう。あの大観覧車」
 そこまで説明して、彼女はやっと理解してくれたらしかった。
 薫は「いいよ」と言い微笑んでくれた。


 なんだかんだで、パレットタウンの大観覧車は、薫と二人っきりで乗るのは初めてだったのに気がついた。
 ゆっくりと上がって行くゴンドラ。感覚は、二年前のあの日と変わらなかった。でもメンタル的な感覚は、はるかに違った。今は薫がすぐ隣にいてくれる。
「始めてこれに乗った時は、吉田さんと一緒だったんだよな。オレ」
 オレは外の景色を眺めながら言った。
「私は浅野君と」
「どんな話をしてたの?」
「今さらヤキモチ?」
「まさか」
「浅野君にはかわいそうな事だったのかもしれないけど……私は彼の言葉に意味も無い相づちをうってただけ」
 その後、彼女は「勇ちゃんは?」と聞いてきた。
 相変わらず俺の視線は外へ向いたままだった。やがて久しく目にしなかった、あの『赤』が目に入ってきた。
「恥ずかしい話さ、説教されてた」
「愛ちゃんに?」
 オレは振り向き、少しハニカミがちに笑って言った。
「そう。正直になれない俺に対してさ、『辛そうにしてるけど、本当に辛いのは薫なんだ』とか。同級生にあんな説教されたの、生まれて初めてだったよ」
「後で愛ちゃんにお礼言っておかないと」
 と、薫は冗談交じりに言う。けど、正直冗談でもなんでもない。実際あの時あの場に吉田さんがいなければ、今のこの関係は最初からなかったのだから。
「綺麗な景色だね」
 外に視線を送っていた薫がふと呟いた。それに小さい溜息が続いた。
「あの時は見なかったの?」
「ずっと下向いてたから……だからこれが始めて」
「おれはずっと外見てたからね。あの時の景色とそんなに変わった様子はないな」
「これを二度も見れたんだ。いいな〜」
 俺は薫の頭を軽く叩いた。そして「またいつかこれるよ」と言うと、彼女は微笑んだ。
「でも……強いて違いを挙げるとすると……」
 いったん言葉を止め、そして次に続けるべき言葉を探した。
 薫が「すると?」と復唱した。
「この『赤』が、あの時は血の色のように見えた」
「……血?」
 また困惑した表情になる薫。俺はそのまま続けた。
「あの時流していただろう、薫の心の血の色」
「私の……心の?」
 俺はそれ以上続けなかった。そしてまた外の景色へ目を向けた。
 それっきり会話らしい会話はなかった。約十六分の空中遊泳は、約八分の追憶と約八分の沈黙で幕を閉じた。


 帰りの電車の中、疲れてしまったのか薫は俺の肩に頭を乗せて眠ってしまっていた。
 時おり、向かいの窓の向こうをいくつもの光が通り過ぎていった。街灯なのか。住宅の光なのか。どちらなのか定かではない。けどそれは、幼い頃に見た蛍の光よりも、とても儚く思えて仕方なかった。
 やがてオレ達の降りるべき駅が近づいてきた。俺は肩を揺すって薫を起こす。
「もう着く?」
「……うん」
「そっか。じゃ、降りる準備しないとね」
 そう言って、そばに置いてあった古着屋の紙袋を手に持った。
 けど俺は動けなかった。動こうとはしなかった。ここで動くと、今のこの現実が一気に崩れそうな気がした。
 そうこうしているうちに目的の駅に着いた。薫は立ち上がって一歩進もうとした。
 だが、俺と繋いだままだった左腕がピンと伸びて止まった。俺は依然座ったままだった。
「……降りよ?」
 彼女の問いを俺は無視した。
「……早くしないとドア閉まっちゃうよ」
 ドアの向こうは直面したくない現実が山のように存在する。俺は、それら全てから逃げたかった。
 薫と共に。
 音をたてドアが閉まった。ガタンと一度揺れ、もうほとんど人の居ない電車は、ゆっくりホームから離れていく。
「……このまま……二人だけでどこかへ行こう」
 沈黙の殻を破って俺は言った。
「……駆け落ち……するつもり?」
「……そういう呼び方もあったっけな」
 俺は苦笑した。自分で何を言っているんだろう、と思った。
「第一どこへ?」
「どこか」
「答えになってない」
「答えなんて必要ない」
 末期症状だな、とも思った。
「必要なのは、こうして二人だけで居られる時間だけだ」
 その後に言葉は続かなかった。俺も彼女も、言葉を探しているふりをして黙っていたのだ。
 またもう一度電車が揺れる。もう次の駅のホームに入っていた。
 ドアが開いた。そして、同時に薫は、一言だけ言った。
「……そんな事……できないよ」


 今思うと、電車の外の現実はどこへ行ったって同じ現実なんだ。そして、あの時降りようが何しようが、いずれは降りなくてはならない。
 逃げられない。なら、逃げるという言葉の本当の意味は何だ?
 そんなくだらない自問自答を繰り広げている時間など、本当はないのかもしれない。今の俺にとって現実逃避は救いじゃない。
 苦痛に苦痛すると言う事による苦痛。それと分かっていながら直視せざるを得ないと言う理不尽。
 薫と歩く線路沿いの道路は、それらへと繋がるいくつもある道の内の一つ。自然と歩幅は縮まり足並みは遅くなる。
「私は……ずっとずっと勇ちゃんと一緒に居たい」
 俺の先を歩き手を引っ張る薫は言った。
「でも、お父さんにもお母さんにも心配はかけさせられない。だって今までずっと育ててくれた人たちだもん」
 この時は正直、『親』を使えば何からも逃げられるんじゃないかと思った。
 でもそれは違うと俺は必死に思おうとした。そんな事を考えている自分がキモチワルくて嫌になった。薫の事を必死に信じたかった。
「わかってくれる……よね」
 薫は振り向いた。暗がりを照らす淡い街灯に反射して、彼女の目に浮かぶ涙が切なそうに光沢していた。
「わかってくれるよね……勇ちゃん」
「……わかるかよ、そんな事――」
 俺はそう言ってキスをした。かなり強引に、彼女を道路わきのフェンスに押し付けて、長く長く、そして激しく。それでも彼女はそのキスを受け入れたのか、抵抗は一切しなかった。
 正直納得いかなかった。一方的にそう言われても、答えようがない。涙を見せられたらなお更だった。
 だからこそキスをしたのかもしれない。誤魔化しと本音とが緻密に絡み合った、表裏一体のキスを。


 翌朝、ホテルのベッドから起き上がると薫はまだ寝ていた。静かな寝息を聴いているとまた眠くなりそうだった。
 俺も薫も何も着ないで寝ていた。この季節、当然部屋の室温は低い。俺はベッドから降りると、掛け布団を薫の肩が隠れるまで敷いてあげて、シャワーを浴びに急いだ。
 冷たい体が温まっていくのに比例して、昨日の夜考えていた事が頭によみがえってきた。
 何度も何度も無我夢中に薫と体を重ねていった中、これからの事や薫の事や自分の事について、ない頭絞って色々と考えた。その過程で、自分がどれだけ自分勝手な男なのかが分かった。
 彼女と一緒に居たいが故に彼女を縛りつけ、彼女にも事情があるにも関わらず自分の思うように行かないと、誰に当たる訳でもなく怒りを露にする。
 何が『薫は、俺の全て』だ。何が『薫の瞳を、ずっとそばで見ていたい』だ。薫の事を何一つ考えていない人間が軽々しく吐く様なセリフか。
 俺は最低だ。言葉少なくても語れるほどの、最低な馬鹿野郎だ。
 シャワールームから出ると、薫は目を覚まし起き上がっていた。そして自分も浴びてくるといって、近くのバスローブを羽織ってシャワールームへ急いだ。
「これから二人どうして行けば良いか、俺なりに考えてみた」
 シャワールームから出てきた薫と、ベッドに並びながら俺は行った。
「やっぱり、薫がフランスへ行くのを邪魔するんじゃなくてさ、薫が出立するまでに二人でやりたい事とかやるべき事を探して行くのが大事なんじゃないかなって」
 閉め切っていたカーテンの隙間から日の光が差し込んでいた。舞うハウスダストがその光を反射してきらきらと輝いた。この時ばかりは、そんなほこりもキレイに見えた。
 ほのかに明るい部屋は段々と暖かくなり始めていた。俺はベッドの上の薫の手に自分の手を重ね、続けた。
「俺らまだ、行ってない場所もやってない事も、やってみたい事も行ってみたい場所もたくさんあるだろ? タイムリミットまでもうそんなに日にちはないけど、ゆっくり俺らのペースで、それらを少しずつこなして行こ?」
 俺は自分の足元に視線を向けたまま、彼女の言葉を待った。今この時点で薫の顔を見るのが怖かった。
 手を握り返してくる感覚があった。俺はまずその手へ視線を向け、何かを確かめるかのようにゆっくり薫の顔を見た。
 言葉は返ってこなかった。代わりに、涙と笑顔が返ってきた。

 続く

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