初めて来た人へ

―第十八話―

 鍵のかかった家のドアを開ける。親が居ないのを知った時、仕事の都合で帰りが遅くなると言っていた事を思い出した。
 階段のふもとにカバンを置くと、そのまま洗面所へ向かった。ずぶ濡れの制服。雨の雫がぽたぽたと落ち、すぐに床はビショビショになった。
 それを全て脱いだ。ワイシャツはそのまま洗濯機に突っ込み、ブレザーとスラックスはそれぞれバスタオルにくるむと洗面所の外に放り出した。
 もう寒いとか言うレベルじゃなかった。シャワーから出るお湯ですら、それを疑ってしまうほどぬるく感じる。
 とりあえず、浴槽の外れた栓をもどし、浴槽の中で体操座りをしてシャワーを浴びる事にした。この方が、全体がいっぺんに温かくなる気がした。


「私のお父さんが調理師やってる事、前話したよね」
「ああ」
 雨足は段々弱まってきたものの、体温の低下は一行に収まらない。手足がかじかみ、唇が震える。
「その仕事の都合で、今度海外の方へ出張する事になっちゃったんだって」
「それが……薫自身とどんな関係があるんだ?」
 そう言って薫の方を見た時、彼女は濡れた地面に目を落としていた。
「……それについて行かなきゃならなくなっちゃったの。おまけに長期出張になるし、永住権を取る訳じゃないけどしばらく滞在しようって話になって……」
 ようやく理解した。薫の涙の意味。無理をしていた理由。全てが一つに繋がった。
「日本に残りたいって言ったんだよ。けど、一人だと色々と危ないし、何かあった時にすぐに駆けつけられるような距離じゃないって言われて……」
 彼女の近況をやっと理解できたと言う嬉しさと、離れ離れになるという現実の辛さ。対となる感情が正面からぶつかる。当然、辛さの方が圧勝だった。
 こんな展開をドラマや映画で見ても、きっと何とも思わないんだろう。或いはありきたりな事だと思って終る。
 だが違うんだ。これは紛れも無い現実。俺と薫の恋に、そんな障害があるとは思いも寄らなかった。


 どれ位の時間、同じ格好でいたのだろうか。気がつくと、浴槽には半分ほどもお湯が溜まっていた。
 だいぶ体も温まった。風呂から上がると俺は急いで体を拭く。洗面所の室温は風呂場のそれと比べると明らかに低く、このままだとまた体温が下がってしまいそうだった。
 カバンやバスタオルにくるんでおいた制服を持って階段をのぼる。バスタオルは既にビショビショになっていた。カバンも悲惨なほどに濡れていたが、なかに教科書類は入っていなかったので、少し安心した。
 部屋に入ってまず失敗したと思った事は、ファンヒーターをつけていなかった事。バスタオルで体をくるんでいるだけの俺にとって、この室温は厳しい。
 とりあえず着替えた。そしてファンヒーターをつけると、温風が当たる所に学習机のイスも持ってきて、制服をハンガーでつるして乾かしはじめた。
 俺はそのままベッドに横になる。ひんやりとした感覚がどこか物悲しかった。


「でも、そんなに長い間って事はないんだろ?」
 俺は少し焦っていた。
 理由の分からない焦り。それがまた、さらに焦らせる。
「……どこへ行く事になったんだ?」
 聞くのに勇気が必要だった。この答え一つで、先にあるのが希望か絶望かが分かる。
「……フランス……」
 絶望だった。


 知らず知らずの内に涙が流れていた。現実を現実と思いたくなかった。だがそんな現実逃避に意味は無かった。そうして解決できる事は何もない。
 でも、現実と向き合う事が怖いのも事実。久しぶりに『葛藤』に出くわした。
 出立は三月の終わり。ちょうど、皆が高二の勉強課程を終了し春休みに入った頃らしい。
 人は、一度絶望を押し付けられると無性に脆くなる。こんなにも自分が脆い人間だなんて初めてしった。
 今まで知る機会が無かっただけなのかもしれない。だからこそ知った時の辛さが全く想像できず、その状況に陥った時、計り知れない虚無感が全身を支配した。
 空っぽの体。そこから流れる涙はどこで生成されたのだろうか。
「……薫……」
 空っぽの体。彼女の実態を掴もうと発した言葉はどこから出たのだろうか。


 翌日から俺と薫は、必要最低限の会話しかしなくなった。放課後部活が終わって一緒に帰るときも、目立った会話も無く。ただ俺達は、今自分達がそこに存在しているというのを確認しあう為だけに行動をともにしていた。
 何も話さぬまま帰路につくのは不気味だった。今まで一度だって、そんな経験が無かったからなのかもしれない。
 何か話さなきゃ、自分自身がおかしくなりそうだった。
 けど、いくら必死に話そうとしても、頭の中にある言葉の引き出しは空だった。
 途中の角を曲がると、薫の家までほんの百メートルほどだった。
「……勇ちゃん怒ってる?」
 ふと、薫が口を開いた。
「何を?」
「急に海外へ行くなんて言いだして……」
 俺は正面を向いたまま、小さく溜息をついた。
「まさか」
 腕を伸ばし、そっと薫の体を俺の所に寄せる。
「少しホッとした。ちゃんと話してくれたからなのかもしれない」
「そう……」
 相変わらず俯いたままだった。
「……んなさい……」
 また薫が呟く。
 切なく震えていた。声も、肩も。
「……ごめんなさい……」
 そうはっきりと聞こえた時、とうとう俺は何もしてあげられなくなった。慰めの言葉ですら、口から出せなかった。ただただ、彼女をずっと抱きしめるだけだった。
 彼女のせいじゃないのに。薫が謝る理由はどこにも無い。でも、どちらにせよこの結果を何かのせいにする事なんてできない。
 できるわけ無いんだ。誰も悪くないのだから。無理に責任を押し付ければ、それは単純に自分の独占欲が強いだけ。
「薫は気付いてた?」
 耐えかねたようにこぼれた言葉。意思とは裏腹に、静かに、それは続く。
「薫の瞳ってさ、他の人よりも色が薄いんだ。今まで見た事がないぐらい、薄くて綺麗な茶色」
 暗い夜道でも、街灯のかすかな光が反射してそれが分かった。薫の瞳は、他の人のそれに比べ、綺麗な茶色をしていた。
「ホント綺麗でさ。いつ見ても、いつまで見てても飽きないんだ」
 この結果を何かのせいにする事はできない。でも、そんな奇麗事を真っ向から受け入れられるほど俺は大人じゃない。
 例え独占欲が強くても構わない。
 薫が、傍に居てくれるなら。
「薫の瞳を、ずっとそばで見ていたいんだ」
 薫と言う存在を失うこと。それは、俺の日常が無くなる事。
 薫は、俺の全てだ。

 続く

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