初めて来た人へ

―第十七話―

 みんながそれぞれ部活に所属してから、五人が揃って登下校する事は極端に少なくなった。学校内や休日に会って話したりはするが、それでも最初はどこか違和感があった。
 だが、そんな生活が続いてもう一年と十ヶ月。当たり前だが今はもうそれに慣れて来ている。仕方がない事だ。みんな朝練で忙しいのだ。
 弓道部に朝練は存在しない。文化部にも元々無く、ましてや幽霊である龍二には最初から関係ない事だった。なので朝はいつも二人で登校する。
 だから、朝彼女から何かしらの連絡でも来ない限り、学校へ行くまで薫が出席しているのか欠席しているのかどうかは分からない。大抵は出席しているのだけれど。
 その日の朝は薫からの連絡は無かった。特に何事も無く彼女は登校しているのだろうと思い、彼女の編んでくれたマフラーを首に巻き軍手を装着して家を出た。
 途中龍二といつものように合流して学校へ向かう。その間話した事といえば昨日のバラエティー番組の事だけだった。だが、彼が無理をしているのは一目瞭然だった。無理も無い。あれからまだ、二ヶ月しか経っていない。
 去年の夏ごろから、龍二は以前話していた子と付き合い始めた。彼女との関係は実に良好。何度か会った事があるが、はたから見ていてもとても微笑ましい雰囲気だったのを覚えている。
 だが、年が明けるのとほぼ同時に、二人は別れざるを得ない状況に陥ってしまった。
 家の都合で、その子は海外へ行かざるを得なくなってしまった。しかも仕事の都合上、永住権をとって暮らすと言う話だった。
 龍二の短い恋は、そこで幕を下ろした。あまりにも急な事で、龍二自信、その現実を受け入れるのに幾日もの日々が必要だった。
「……あんま無理すんなよな」
 そう声をかけてあげる事しか、今の俺には出来ない。
「大丈夫だって。もう心配すんなよ」
 そういって見せる笑顔が、どこか寂しげだった。
 突然龍二は背中を強く叩く。衝撃が肺に伝わり、思わずむせ返る。龍二は、意地の悪そうな笑みで「お前こそ最近どうなんだ?」と聞いてきた。
 もう二月に入り数日が経つ。ちまたではだんだんと『バレンタイン』と言う単語が目立つようになっていた。
 俺は、そんな二月の空を見上げた。風が吹くとそれこそ凍えそうになるが、その寒さの甲斐あってかすごく澄んで見えた。


 少なくともその時は、俺と薫の関係に、何の心配も無かった。日がまた昇り繰り返すように、なんの問題も無く流れるのだと。
 少なくともその時は、そう信じていた。


 ホームルームが始まってすぐ、今日薫が欠席である事を知った。先生から、「何か聞いていないのか」と言われたからだ。そりゃ校内でも結構一緒に居て、先生からもそれなりに冷やかされたりする事もあるぐらい、校内でも有名なカップルではあるが、いくら何でも俺を頼られても困る。
 俺は「知らない」と答えた。
「やっぱ欠席なんですか?」
「篠原のお母さんから今朝電話があった。詳しい事は何も言ってなかったが、気分が悪いそうだ」
 俺は「そうですか」と言って少し俯いた。
 おかしいとは思っていた。いつも朝練はホームルームが始まる頃には終わっている。なのに薫がなかなか姿を現さないのは、それなりに理由があると思っていた。
 薫は中学の時、学校を休んだ事は無かった気がする。そんな彼女が学校を休むと言う事は、その事実を知っている人間からしてみれば一大事的な出来事だ。
 やりきれない虚無感が襲った。
 ホームルームが終ってすぐに俺は電話をかけた。だが出る気配は全く無かった。すぐに切ると今度はメールを送った。とにかく何でもいい。返事が来てくれる事を願った。
 昼までに、多分彼女にしつこいと言われる位の量のメールを送った。だが結局、一通も返事が返ってこなかった。
 彼女と言う存在の大きさを改めて知った。同時に、そんな薫に何もしてやれないというもどかしさと苛立ちが交差し、そして絶妙に絡み合う。
「っつーかお前自身がダメになりそうなこの状況、どう思う?」
 と、有川が誰に聞く訳でもなく言った。
「少し大げさすぎやしないか?」
 吉田の言葉に、みんながそれぞれ相づちを打った。
 彼らの言うことは確かに一理あるのかもしれない。だが今の俺にとって、その一理を受け入れる事は薫と言う存在を大なり小なりけなす事と同じだった。
 俺は携帯をしまった。そして、今日は部活をサボり、真っ先に彼女の家に行く事を決意した。


 部活を休んだせいで、周りの住宅がほんの少し見慣れない物のように感じた。下校時間の違いからだろうか。いつもなら香る夕食のにおいも何もしなかった。
 だが足は迷う事無く薫の家へと向かっていた。そして、少し小走りになっていた事にすら気がつかなかったほど、焦っていた。
 薫の家に着いたが変わった様子は何一つ無かった。ズンと佇む一軒家。薫が小学生になった時に建て替えたと聞いた事があった。
 呼び鈴を鳴らす。さっきとは別の焦りと緊張が目立ちつつあるなか、インターホンの向こうから「どちら様でしょうか」と声が聞こえた。
「篠原さんの同級生の海野です。クラスを代表してお見舞いに――」
「ああ〜。君が海野君ね〜」
 調子の崩れそうなノリで、インターホンの向こうの女性は続ける。
「薫からよ〜く聞いてるわ〜、君の事。うちの薫がいつもお世話になってます」
「は……はぁ」
 と言いながらついつい会釈をしてしまう。電話先の人に対してついつい会釈をしてしまう、典型的な商社マン系なのだろうか、俺は。
 だが、この親にしてこの子あり、とはまさにこの事なのだろう。雰囲気と言い突拍子の無いノリと言い、薫そっくりだった。
「ウソつかなくったって構わないわよ。男の子が女の子の家に、それもクラス代表だなんて言ってお見舞いに来るなんて、いかにも自分を彼氏だって公表しているような物だもの」
 なかなか次の話題へ移れないのが辛い。一刻も早く薫の容態を知りたかった。
 会話の途中で申し訳ないと思いながら、強行突破へ移る事にした。
「それであの……薫の容態は……」
 しばらくの沈黙。生唾を飲んだ。この居たたまれない虚無感が必要以上に緊張させ、手足が異様に震えた。
「薫なら大丈夫。すこし精神的なショックが大きかっただけで、外傷は何も無いから心配しないで」
 薫のお母さんの、静かでやさしい言葉。虚無感が安堵感に変わり俺は胸を撫で下ろした。
「……原因は……何なんですか?」
 そう聞くと、また黙ってしまった。だがさっきほどの長い沈黙じゃなかった。すぐに声が返ってきた。
「それは……薫本人に聞いてちょうだい」
「薫に?」
「ええ。私からじゃ、話せないから」
 さっきの安堵感は一体なんだったのだろう。気がつくとまた不安感で一杯だった。
 薫を呼ぶ声が、インターホンの向こうから聞こえた。同時に、かすかにだが家の外へとその声が漏れてくる。
 しばらくし家の中から階段を下りてくる足音が聞こえて来た。そしてドアが開いた。現れた薫は、多分それがパジャマ代わりなのだろう、学校指定のジャージに身を包んでいた。
 俯いたままで顔色がよく分からない。だが、これでもかと言うほどに沈んでいるのはよく分かった。セミロングの髪も、とかしていないせいか所々束っぽくなっていた。
 玄関前の小さな門を開き、ゆっくりと歩く薫のもとへ近寄る。
「大丈夫かよ」
「……うん」
 全然大丈夫じゃないのは歴然だった。顔色を確かめるため、顔をこちらに向けるように指示をした。
 目の周りは真っ赤なくせして全体的に血の気を失ったような蒼白さ。いつもの綺麗な顔が、今では病人のように生気を失っていた。
 手を置いていた彼女の肩が小刻みに震えていた。
 俺はブレザーを脱ぎ彼女に羽織らせた。俺は中にカーディガンを着用していたから多少の寒さは我慢できたが、薫はそうはいかない。
「……勇ちゃん」
 ふと彼女は言った。そして、顔を俺の胸板に当てた。
「……私……どうしたらいいのかなぁ」
 そう震える声で、苦しそうに言った。
 俺のカーディガンを掴む力がより一層強くなった。薫は、俺の胸に顔を埋めたまま、泣いた。
 我慢していた何かが溢れ出すかのように涙をこぼし声をあげた。
 今日は止めておこう。そう思った。あまりにも急すぎるし、何よりこんな彼女の前でその辛い出来事をぶり返させるのはかわいそう過ぎる。
 俺はそのまま薫を抱きしめた。何をしてあげればいいのか分からず、ただただそうしてあげる事しか出来なかった自分が、無性に情けなく思った。


 翌日の朝、なぜか薫が家の前で待っていた。
 俺は内心焦りながら理由を聞いたが、「久しぶりに一緒に登校したかったから」の一点張りだった。
 昨日会ったときよりは顔色はよくなっていた。いつもどおりの薫に、少しだけ近づいていた。
「朝練いいのか? サボっても」
「ちょっと言い訳作れば大丈夫だよ」
 そう言って笑った。
 横から見るその笑顔を見て唐突に理解した。彼女は明らかに、無理をしている。それを直感した瞬間から、何かが俺にズンと圧し掛かった。同時に、何とも言いがたい無力感。心にスッポリと穴が開いたようだった。
 今の薫を見ていると、居たたまれない気持ちになる。なぜ、俺の前で無理をする必要がある?
 不安があるなら俺に相談すればいい。悩みがあるなら俺に相談すればいい。なぜ、俺を頼ってくれない。俺が彼女にしてあげられる事と言ったら、彼女の気持ちを正面から受け止めてあげる事位しかないのだから。
 或いは、俺じゃ頼るに値しないのか?
 俺は薫に何もしてやれない。いや、俺は今まで薫に何をしてあげて来た?
「ねぇ勇ちゃん」
「……ん?」
「今日……部活サボれない?」


 どんよりと灰色の雲が空を覆っていた。見ているだけで息のつまる威圧感。雨が降るのも時間の問題だった。
 そのせいかやけに寒い。実際こういう日に弓を引くにはそれなりの覚悟と度胸とやる気が必要だ。
 だが、今日はその覚悟をする必要も、やる気を出す必要も無い。放課後薫に言われるまま部活を休み、下校し、そして二人の関係の始まった公園へやって来た。
 適当にベンチに座る。お互いが言葉を待っていたせいか長い沈黙が始まった。
 薫が小さく息を吐いた。彼女から言葉が来ると感じた瞬間、すこし体がビクついた。
「ごめんね」
 薫は間髪いれずに続ける。
「せっかく調子よかったのに、部活休ませちゃって」
「……何で朝から無理ばっかしてんの?」
「選手候補なんだよね、確か。でも勇ちゃんなら平気か」
「……なぁ薫。俺の前で無理すんなよ」
「って言うか、覚えてる? 私たちここで――」
「……おいっ!」
 つい声を荒げてしまった。ひとつもかみ合わない会話が、そこで一度収まった。
「……なんとか選手にはなれたよ。変更の予定はまだ今の所無いみたいだから、今日ぐらいは平気。んで、ここは二人の関係が始まって、そして始めてキスをした場所……だろ」
 しばらく間をおいた。彼女から何かしらの言葉が返ってくると思っていたが、いい意味で、さっき声を荒げてしまったのは正解だったようだ。何一つ言葉は返ってこなかった。
「それが何だよ。つーか俺の話聞けって」
 そう言って薫の方を見た。俯き沈んだ表情の彼女の口が、言葉を探るように動き、やがて小さい声で言った。
「無理……してないよ」
「してる」
「してないよ」
「してる」
「してない――」
「――じゃぁなんで……」
 俺はそう言いながら、彼女の肩に手を置きこちらに振り向かせた。
 その時、『今日初めて』彼女と目があった。
「今日、一度も俺の事を見てくれなかったんだ?」
 今日、俺が薫の事を見ようとしても、彼女は目を逸らしてばかり。ましてや彼女の方から俺の事を見てくれたりなんてしなかった。
「何があったんだよ。全部教えてくれ」
 薫のお母さんの『私からじゃ、話せないから』という言葉が脳裏を過ぎった。一番薫に関係した事実であり、同時に薫の親も知っている事実。それを遠回しに、けど瞬時に悟らせる事の出来る、素晴らしい台詞だ。
 俺に知る権利なんて、最初から無いのかもしれない。仮にあっても、薫が俺にそれを教える義務なんて無い。
 こうやって追求する事は、俺の単純なエゴであり自己満足の一つで、同時にそれがさらに彼女の傷を深くえぐる凶器なのかもしれない。
 けど、それでも知りたい。どんなに傷を深くえぐろうがなんだ。えぐられたなら、塞げばいい。一人で塞ぐ事が困難でも、二人で塞ごうと努力すればなんとかなる。
 薫は、決して一人じゃない。
 ぽつぽつと冷たい雨が降りだした。それはまるで夕立のように短時間で強さを増し、地面は色を濃くした。それに打たれ、体温は急激に低下し始めた。
 唇が震え始めた。寒い。体がそう嘆いている。
「……分かった」
 雨音で聞き取り辛い位小さな声で、薫は言った。
「……全部……話す」

 続く

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