年が明け、新学期が始まり、久しぶりにクラスメイトの顔を見た。誰も変わった雰囲気は全くなかった。その事にどこか安心していた。
昼飯の時、クリスマスでの一件を話したら、皆から「おめでとう」と言う声がかかってきた。同時に、背中を何度も強く叩かれた。
弁当を食べている途中だったので俺は当然のようにむせた。そして振り払うように体を動かし、弁当箱を持ちながらその場を一時的に離れた。
「いてぇっつの！」
「俺らなりの祝いの印だ」
吉田は言って笑った。
余計なお世話だ。こんな痛い祝いの印、あってたまるか。そう心の中で叫ぶ。
吉田達はケラケラと笑っていた。いつまでも弁当箱を持って立っているのも恥ずかしいので、俺はみんなからほんの少し離れて座った。
「今日は童貞卒業祝いだ」
高野はそう言うと、ペットボトルの中身を一気に飲んだ。そして続けた。
「みんな部活サボってカラオケだ」
みんなして「いいねぇ」と言った。俺もそれにつられ「賛成」と言ってしまった。
童貞卒業したぐらいでこのお祭り騒ぎなら、結婚でもしたらどうなるのだろう。ふと、疑問に思った。
当の薫の方はと言うと、彼女も似たような境遇にあったようだ。下校の時、どこか楽しげに話してくれた。
つるんでる女の子達から、「エロ〜い」とか「やらしいからやめてよ〜」などと冷やかされたらしいが、それを語る薫の顔を見る限りだと、別に気にはしていない様子だった。むしろ、周りのそんな反応を密かに楽しんでいるようでもあった。彼女の本性を垣間見た気がした。
寒さが日に日に増していく一月の家路。凍えて震えている彼女の唇に自分の唇を重ねた。リップクリームを塗っている彼女の唇は少ししっとりとしていて、同時に冷たかった。
彼女と一夜を共にしてからというものの、お互い大胆になったと感じ始めた。二人で歩く時、頃合を見計らっては唇の奪い合いをした。
恥ずかしさはほとんど無かった。もちろん人前で堂々と出切る訳ではないが、とにかく、こうしてお互いを求め合う時が普通に楽しかった。
薫の手を握り自分のポケットに押し込んだり、逆に彼女に握られコートのポケットに押し込まれたり。何かしたりされたり。結果的にお互いの顔を見つめあい、はにかみ。
それが、まるで当然のように循環した。
常にお互いの距離を測り、一定に保つ為の、さり気ない作業。そして仕上げのキス。無意識の内に、そして暗黙の了解で、俺と薫はそれらの行動を幾度と無く繰り返した。そうして行く内に、ほんの少しだが結婚も意識するようになった。薫と、ずっと一緒に居たいと思うようになった。
勝手に結婚だなんて、拘束的な考えかただと言うのは十分分かっている。けど、彼女以外の人間との結婚は、俺には想像できない。それだけ彼女と言う存在は大きくなっていた。
『薫と一緒にいる』と言う日常は、もう日常と言う言葉では形容しきれないほど大きくなっていた。
一月最後の日曜日は久しぶりに部活が休みだった。そこで薫を誘って遊びに行こうとしたが、バドミントンの練習試合のため断られてしまった。
仕方なく、ある意味年中暇をしている龍二と、俺と同じく彼女がバドの試合で居らず暇をしているだろう賢吾を誘って遊ぶことにした。最初は駅前を適当に歩いた。だが途中で服を買いに行く事に決まり、近くの服屋に足を運んだ。
一月最後は、暦上冬の半ばを過ぎその後半へと突入する頃。とは言えまだ寒さは衰える事を知らず、むしろ今頃になって寒さが厳しくなってきていた。
俺はこの先の事を少し考慮しながら服を選んだ。結果、赤色のパーカー一着と、中に着るシャツを、重ね着を少し意識して二着。そして学校に着て行く為の紺のカーディガンを一着買う事にした。
賢吾たちも似たり寄ったりの買い物をした。本当は柏とか竹下通りに出てもっといい服を買いたいのだけれど、あまり時間がないからしょうがなかった。
その後、このままゲーセンに行くか、近くのファーストフード店で昼食を取るか、この荷物をコインロッカーにでも置いていくかでもめた。いくら話し合っても妥協しないので、公平にじゃんけんをした。結局賢吾が勝ちマクドナルドへ行く事になった。今思うと、俺達三人がじゃんけんをして、賢吾が負けた回数は異様に少ない気がした。
「荷物になるから買ったヤツはコインロッカーにでも置いていく？」
賢吾の提案に俺は賛成する。
「ちょっとまて」
と龍二。
「なに？」
賢吾はわざと知らん振りをして言う。
「結局ロッカー使うならじゃんけんの意味ねぇだろが」
「知ってる」
賢吾の『知ってる』と言うツッコミの後に何か言える人間は、俺の知る限りでは一人もいない。彼はなかなかの策士だ。どんな状況でどんな事を言えば相手が黙るのかを、瞬時に理解し実行できる。
龍二は「ビッグマックこそマクドナルドだ」と訳の分かるような分からないような事を言うが、もし俺がそれに対抗するならこう言ってやる所だ。「てりやきマックバーガーこそマクドナルドだ」と。その脇で賢吾はダブルチーズバーガーを五つも食べていた。彼はその体の細さからは想像できないほどの大食いだった。
「最近良い感じの子ができた」
ビッグマックを頬張る龍二が嬉しそうに言った。
「塾で知り合った子なんだけどさ、すげぇ優しいの」
龍二は幽霊部員でさらに頭が悪い為、塾に行かされていた。その甲斐あってか、最近の彼の成績の向上振りには目を見張る物があった。
とは言え、成績が向上したからとは言え馬鹿なのには変わりはないのだけれど。
「最近はメールのやり取りとか塾で喋ったりだけだけど、かなり好感触」
彼は決してルックスが悪いわけでも性格が悪いわけでもない。考える事は少しずれているかも知れないが、それ以外はほとんど普通の人間だ。面白味が無いといえばその通りかもしれないが非なる部分があるわけでもない。
正直俺なんかよりも決断力があって物事をスパスパ決める事ができ、人間を引っ張るのに向いている。何を隠そう、彼の血液型はB型だ。
「これでお前らに一歩近づけそうだよ」
龍二は心底嬉しそうに言った。
「俺だけだもんな。童貞」
「あんまり気にすることでも無い気がすんだけどな」
と俺は言った。
「そりゃそうだけどさ」
龍二はセットでついてきたコーラを一口ほど飲んだ。彼はストローを使わない主義者だった。
「あまり焦ると逃げるぞ？」
と賢吾。
「俺みたいにゆっくり関係を築くのがベストだと思うけどな」
「お前は単純に鈍感なだけだ」
不覚にも龍二にダメだしされてしまった。
だが、友人のこんなに楽しそうな姿を見る事を嫌がる人間なんてのはいない。俺自身、薫との件で彼にはお世話になったのだ。できる事があれば何でもしてあげたいと思っている。
「ま、月並みな事しか言えないけど」
俺はまだ手をつけていないチキンマックナゲットを龍二のトレイに置いた。
「がんばれよ。一応、応援してるから」
龍二は「一応かよ」と突っ込んだ。そして「ありがとな」と言って早速ふたを開けた。
弓道の練習で念願の皆中を経験した。控えの方から沸き起こる拍手に、俺は思わず飛び跳ねたくなるような喜びに駆られた。
その喜びをいち早く薫に伝えたかった。部活が終ると、急いで校門へ向かった。
「それホント？ おめでとう」
帰り道に彼女は言った。薫からのその月並みな一言が、まるでたった今新しく作られた造語のように新鮮だった。
「カイチュウするのって難しいんでしょ？」
「難しいって言うか……うん、難しいんだろうな」
と言う俺の曖昧な返答に、薫は複雑な表情を見せた。それを見て小さく笑うと、俺は体を動かして表現する事にした。
「やっぱちゃんと弓を引けてなきゃならない。でもそれだけじゃなくて、弓手(ゆんで)を押して右腕の肘をちゃんと入れる。そして会をしっかり持って矢の線をしっかり的へ向ける。そして緩む事無くしっかり押し切って、且つ自然に離れる。言葉じゃ簡単だけど、やろうとするとホントに大変なんだ。しかもこの大変な事を四本全部成功させないと皆中にはならない」
そこで初めて、自分の説明が専門用語ばかりだった事に気がついた。弓道をやらなければ一生触れる事の無い用語と言っても過言ではないだけに、彼女はまた複雑で難しそうな顔をしていた。
どうやらジェスチャーでもいまいち理解は出来なかったらしい。
「とにかく難しいんだ」
俺は逃げるように言った。
「それに弓道は、的に中ればそれで良いって訳じゃない。その過程も大事だし、て言うか過程が確りしていないと的を射る事なんてあり得ないから」
そうなんだ、と彼女は少し冷めたように言った。表情からはうかがえないが、多分退屈していたのかもしれない。
「実力？」
しばらくして彼女が言った。
「マグレ」
「三回続けば実力だよ」
「三回続かなきゃマグレのまま」
「ポジティブシンキング。絶対続くって」
こうやって薫に励まされるのは何度目だろう。きっともう片手では数えられないと思う。
いつの間にか話は先日の日曜日の事になっていた。俺は、龍二が話していた事を薫に話した。
「なんか女の子に恵まれない人だもんね。龍君って」
「それを言うなって。あいつはあいつなりに頑張ってんだから」
彼女は「そうだよね」と言うと続けた。
「彼女できるかな」
「できるさ」
「また途中で逃げられちゃうかもよ。それか友達止まり」
「ポジティブシンキング。あいつなら絶対できる」
「使い方違う気がする」
彼女はそう言ってプッと吹き出した。それにつられ、俺も少し笑った。口から出た白い息は、暗くなった一月最後の夜へと溶けていった。消えた息を探し吸い込もうとしたけど、結局それは無理で、代わりにそこにあった新鮮な空気が肺に充満する。
しばらく息を止めた。喉、気管、肺。冷たさがいつまでも残っていて気持ちよかった。
続く
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