初めて来た人へ

―第二十三話―

「絶対嘘だろ!! 作り話に決まってる!!」
 そう言って知也は身を乗り出した。その様子を見ていた店員や客が、何事かとこっちを見た。賢吾は、迷惑沙汰はごめんと言う風に知也の事をなだめる。
「嘘じゃねぇって。自分でも正直馬鹿げてるって思う時はたまにあるけど、紛う事なき事実なんだよ」
 と、ちょっと高い位置から見下ろす感覚で知也に言った。
 すると彼は急におとなしくなり、ドスンと音を立てて椅子に座った。そして言った。
「……いい話だなぁ……」
 この時は本気で、こいつは大丈夫なのかと思ったりもした。
 結局、俺の話を全て終えるのに二時間半もの時間がかかってしまった。でも夏の太陽は相変わらず高い場所から地上の生き物、特に人間を苦しめている。
 もう暫くここに居ようかとも思った。けど、その理由は涼しいからと言うだけであって、特に何かを注文しようと言う気は毛頭なかった。最後に水を一杯ずつ貰って飲み干すと、金を払ってそそくさと店を後にした。
 夏の午後三時といえば、太陽の南中はとうに過ぎ、暑さのピークも収まりつつある時間だと思っていた。けど、どうやらそれは見当違いだった。そもそも八月と言う季節自体に、そういう自然現象は全くの無関係なのかもしれない。
「さてと」
 龍二が言った。
「これからどうする?」
「俺は課題があるからいったん帰るよ」
 賢吾は言った。彼は例え夏でも、常にクールだった。
「つれねぇな〜。プールでも行って女の子捕まえてそのまま夜飯食って〜って考えてたのに」
 と知也。もはや彼のノリや知能は龍二のそれと同レベルな気がした。
「俺はいいよ。距離を置いてるとは言え、一応中学ん頃から付き合ってる彼女いるし。お二人だけで行ってらっしゃい」
 最後は所ジョージ風に指をさし、賢吾は言った。彼も最近は、クールなわりにシュールなボケもこなせる様になってきていた。
「じゃぁ勇樹は?」
 と知也。
「ん? 俺?」
「この場に勇樹はお前以外いないだろ」
「知ってる」
 龍二の言葉に対し、俺は賢吾お得意の流しを披露して見せた。
「俺はもう少し道場で引いて来る。もう少しで何かが上手くいきそうなんだ」
「そっか」
 知也は少し残念そうに言った。
 結局四人で、夜再び遊びに出かける事になった。その約束を済ませると、俺はそのままの足で大学の弓道場へ向かった。


 弓道部の顧問に許可を取り的を安土(あづち)に付け、さっそく道場の更衣室で胴着に着替えた。パンツ一枚の上から白木綿着を作務衣の上衣のように着、帯を巻き黒の袴を穿く。そして靴下を脱ぎ足袋を穿き更衣室から出て、弓やゆがけを用意し、射場に入った。
 静かだった。セミの声が道場の中にまで響いてくるが、半分無心状態の俺にとっては、さほど気にならなかった。
 四本の矢の内二本を足元に置き、残りの二本の内さらに一本を弓に番(つが)える。もう一本は矢尻を右手の小指と薬指で握って、一本目を射るまでそのままにしておく。基本的な行射(ぎょうしゃ)の流れだ。
 胴造りを終えたら弓の弦を取懸け、手の内を作り物見を入れると、俺はそのまま打起こしの動作に入った。
 そして引分けた。その刹那だった。微かに道場の床のきしむ音が聞こえた。誰かがいる事は明らかだった。だが引分けた状態から振り返ることは出来ない。とりあえずそのまま会を持ち、一本目の矢を射る。
 その矢が的に命中した時、「よっしゃー」と小さく聞こえた。おそらく、道場に居る俺以外の誰かが言ったのだろう。俺は残心を取り弓倒しをした後、腰から上をまげて言った。
「すみません。ここは部外者立ち入り禁止なんですよ」
 そう言ってその人が目に映った時、その女性に少しばかり見覚えがあることに気がついた。白く輝くワンピースに身を包んでいて、肩を越すほどに長く薄い茶色の髪が、体をほんの少し体を揺らすだけでなびいた。髪の色はその服の色により、よりその色を目立たせていた。
 そして、その女性の細い左手の薬指には、見覚えのある銀色のシンプルな指輪が外の光を反射させていた。
 彼女はそれを見せてこう言った。
「これでも私は部外者ですか?」
 俺は、溢れてくる何かを堪え、「いいえ」と答えた。そして、俺を正面から見れる場所で、尚且つ危なくない場所に座っている様に言うと、二本目の矢を番えた。女性はその間に俺より一メートル半ほど離れた真正面に正座した。
 先ほどと同じ動作で二本目を射る。的に中った時に穏やかな風が道場を通り抜けた。彼女は右のこめかみの辺りに手を当てて、髪が目の前を塞がないようにしながら、的のほうに首だけを向けて「よっしゃー」と声をあげた。
 これが、彼女に初めて見せた自分の弓道をやる姿だった。彼女の綺麗な茶色の目には、俺は一体どのように映っているのだろう。
 ふと、そんな事を思った。

      <完>

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