―第十八話―

初めて来た人へ
 暫く時間がたったが、ニーナは全く痛みを感じなかった。
 痛みを感じる暇でさえ彼女には与えられていなかったのか。そう思ってしまうほどだった。
 恐る恐る目を開ける。
「……リヴァル……」
 さっきまで気を失っていたリヴァルが、今目の前でネイドの剣を押さえている。剣はガチガチと音をたて震えていた。
「……すばらしい回復力ですね。ヒーリングと言うのは」
「バカ言え……」
 リヴァルは数回深呼吸し、顔を上げた。
「まだ体中痛ぇよ」
 確かに、荒く量の多い呼吸や顔色からすると、完全には回復できていない様子だった。
 本来なら、立つ事ですらままならないのだろう。
 だが、たとえそんな状況でも、彼は剣を抜き、ネイドの剣を押さえた。
「……けど、痛ぇ痛ぇ言ってられる状況じゃねぇだろうが!」
 そう言い放ちながら、剣を振り払った。
「これ以上仲間を傷つけられてたまるか」
 全ては仲間の為。
 傷だらけの体を無理やりにでも動かす事の理由に、それ以外それ以上の事は無かった。
 だが、体のダメージをまったく無視する事は当然出来ない。
 よろよろとしながらも立ち上がるが、脳の受けた衝撃は今だに治まっていない。
 急な立ちくらみに襲われ、ふらついた。
 剣を地面に突き刺し、それに寄りかかる形で辛うじて立っていられるが、とても戦える状態では無い。
「そんな状態で他人を守りたい? 自分一人でさえ守れるかどうかも分からないというのに……」
 もっともな事だった。
 リヴァル自信も、十分それは分かっている。
「意気込みや気迫、想いや願い……そう言った物だけでは戦う事など出来ないと言う事を、今一度教えてあげましょう」
 ネイドはそう言うと、再び剣を振り上げた。
 リヴァルはすぐに反応し、剣を自分の前で横にした。
 それを見たとたん、ネイドは笑んだ。
 そしてそのまま剣を振り下ろす。
 リヴァルの剣とネイドの剣が十字に交差したかに見えた。
 だがネイドの剣はリヴァルの剣をすり抜け、本当はそこに何も無かったかのように下りていった。
 そして、リヴァルの左肩から腹部にかけてを深く削った。
「……え?」
 また、実に一瞬の出来事だった。
 リヴァルは、痛みを感じる前にまずそう呟いた。
「私の持つ剣が水で出来た剣である事を、あなたは知りませんでしたよね」
 そう微笑するネイド。
 その言葉が終わったあと、耐えかねた様に血が噴き出した。
 瞬間、ニーナの悲鳴が轟く。
 リヴァルも固まったまま動かない。
 あるいは、もう既にショックで意識を失っているのかもしれなかった。
 無理も無い。体はとっくに限界を超えている。
 だが、急に見開きネイドを睨みつけたその目は、今だ死んでいなかった。
 それどころか、ネイドに一種の恐怖心を叩きつけまでした。
 自分とは異なる対照的な何かが、彼の意識に眠っている。
 意識と言う殻から漏れた物。殺気ではない。
 だが確かに、ネイドはそれによって恐怖を与えられ死を予感した。
「うおおおあぁぁ!!」
 手首を捻り横にしていた剣を縦に戻す。
 そして真っ直ぐに振り下ろした。
 矛先は、かすかにだがネイドの左肩を削った。
「――くっ!」
 ネイドはすぐに剣を手放し、肩を抑えた。
 外に出ようとする血の勢いは、気を許せば手ですら押し退けてしまいそうだった。
 対するリヴァルは、その一撃に全力を注ぎ込んだせいで、自分の剣が地面に接触したのとほぼ同時に意識を失い、倒れてしまった。
 ニーナはすぐにリヴァルの元へやって来た。
 自分が泣いている事ですら気付いていないようだった。
 我を忘れ、無我夢中でヒーリングを開始する。
 それをあざ笑うかのように、流れる血はじわりじわりと地面にしみこんでいった。
 赤黒い色が少しずつ広がる。
 ニーナは、それを見ずにただひたすらリヴァルの傷を塞ごうと必死だった。
 それを見るのが恐ろしかった。
「……この状態では厳しいですね……」
 ネイドの押さえる手からも、血は止まる気配は無く、腕を伝い指先にたまり、そして雫となって落ちた。
 リヴァルほどでは無いにしても、これで両者とも戦えなくなったのは確かだ。
「しょうがないですね……ひとまず撤退しますか」
 おぼつかない足並みで、ネイドは空間の穴へ歩いた。
「いずれまた会いましょう」
 振り返り、苦笑に似た微笑をした。
「あなた方がブロル帝国へ訪れる日を、首を長くして待ってますよ」
 そして、穴へと姿を消した。


 嵐は去った。
 だが、彼等はその嵐に、己の非力さを改めて教えられたのだった。


 現実か夢か。
 そう問われると答えるのが難しい、そんな空間に、リヴァルは浮遊していた。
 そこは真っ暗だった。自分の手でさえ見えないような。
 人は、そこに自分の体がある事を無意識に確認し、そしてそれに対して無意識に安堵する。
 自分の体がそこにある事こそ、一番に自分が生きていると実感出来る事だからである。
 故にリヴァルは恐怖した。
 感覚ですらおぼつかないのに、何も見えない。
 顔を触れたはずの指ですら、見えない。
 生きているかどうかも分からない。
 けど、死んでいるのかどうかも分からない。
 ふと、光が見えた。
 ただ丸く放射状に光っていただけの光は、いつしか複雑な形を作り、そして人をかたどった。
 ――……誰……だ?
 眩しくて直視できない事と、今だ視覚が正常に働いていないせいもあり、それが誰なのかわからない。
 だが知っている。会った事がある。そんな気がした。
 いや。『会った事がある』ではない。
 いつも会っている。いつもそばに居る。
 あるいは……自分自身……。
 ふと彼は、自分の後ろを指差した。
 リヴァルは振り返ると、そこにも放射状に光を放つ物があった。
 その向こうから、声が聞こえる。
 聞き覚えのある声だ。
 そして、自分を呼んでいる。

 ……行きなさい。そして生きなさい。

 後ろから、体中に響くような声が聞こえた。
 さっきの人のような光の言葉なのだろうか。
 振り返ろうと思ったが、何かに押さえつけられていて無理だった。

 ……帰りを待つ者。帰りを望む者。
 ……あなたにはまだ、生きる義務と使命があるのだから。

 その声はどこか懐かしく、だが始めて聴く声のように思えた。
 だが鮮明で、まるで言葉そのものが体を動かしているような感覚があった。
 現実か夢か。
 そう問われると答えるのが難しい、そんな空間は、その瞬間終わりを告げた。


 薄っすらと目を開けると、最初に見えたのはニーナの顔だった。
「……良かった……」
 そして彼女は、まず始めにそう言った。
 頬を伝う涙を拭くと、リヴァルがすでに三日も意識不明だったことを伝えた。
「……ネイドは……どうなった?」
「あの後、たぶんブロルに帰ったんだと思う」
「……そうか」
 安堵の溜め息をつくと、体を楽にした。
 自分が最後に一撃を与えた事は、おぼろげにだが覚えてはいた。
 だが、自分は向こうに散々な目に合わされて、結局一撃しか与えられなかった。
 体験で分かる、経験の差。
 あるいは、下山中に感じた殺気に臆していた時点で、負けていたのかもしれない。
 ふとニーナの方に目が行った。
 さっき拭ったばかりの涙が、再び流れていた。
「ニーナ?」
 リヴァルは驚き、とっさに声をかけた。
 ニーナもその声に反応し、思わず頬に手を触れた。
「……あ」
 そして、自分が泣いている事にようやく気がついたのだった。
「ご、ごめん……ホントに……」
 顔を押さえていても、少しずつ赤くなっていくのが分かる。
 それに比例するように、涙の量も増えていった。
「……よかった」
 彼女はそう小さく呟いた。
「……誰も死ななくて……ホントに良かった……」


 ネイドは、つい先日まで傷のあった左肩を見て、惚れ惚れした。
 同時に、ブロルの科学力にも感心した。
 あれほどのキズならば、二日も時間があれば完治してしまう。
 だが、そのブロルの科学力は移動できない。
 空間圧縮と併合すればさほど問題は無いのだが、それでもタイムロスが出る事は必死だ。ましてや、混戦の最中戦場で空間圧縮を行った時、敵がその穴からブロルへ侵入してしまう事も十分考えられる。もっとも、常人には穴を通る事は死を意味するのだが。
 ――まぁ、皇帝陛下の場合はまず観測記録の奪還を優先するでしょうけど……
 そんな事を考えながら、ネイドは王の間へ向かった。
「おお、ネイド」
 自分の前に現れたネイドを見て、ギースはそう声を上げた。
「もうキズの方は大丈夫なのか」
「ご心配無く。行動に支障はありません」
 ギースの前でひざまずき言った。
「皇帝陛下より与った観測記録奪還の任、今しばらく御待ちを」
「そろそろ乱流維持も限界と聞く。出切るだけ迅速に頼むぞ」
 ギースの言葉に、ネイドは俯きながら「仰せのままに」と返した。
 その時ネイドは、不適な笑みを浮かべていた。


 実の所、彼にとってもはや観測記録など不要な物だった。
 彼の目的に、観測記録もこんな地位も、もはや必要なかった。
 今はただ、その時を待つだけで良い。
 力を蓄えながら、その時が来るのを、ただ待っていれば良い。
 自室に戻る途中の廊下で、彼は足を止めた。
「任せていた実験の方はどうなりましたか? ブロウス」
「時間がかかり過ぎてしまいましたが、無事成功です」
 ブロウスと呼ばれた男は、微笑しながら言った。
「ウィーグルは今までの類を見ない戦闘能力です。完全な実戦投入はまだ無理ですがいずれ……」
 それを聞くと、ネイドはさぞ嬉しそうに微笑しながら頷いた。
「……フフフ……もう少し……もう少しで歴史が動く……復讐と言う名の、ね」
 言い終えた後、ネイドは頭を押さえ、高らかに笑いながら廊下を歩いた。
 ――あの御方……もはや止まる事など皆無ですね……。
 ブロウスは、そんなネイドの後ろ姿を見送りながら、後に起こりうる事の顛末を想像した。
 瞬間、恐ろしさのあまり鳥肌が立った。
 彼は本物だ。
 完全なる悪と言う名の復讐鬼。
 もはや止める術など無かった。
 だがそれは、第三者にとってもネイド本人にとっても同じ事だという事を、まだ当人は分かっていなかった。
 ゆっくりと、だが確実に、歯車は回りだした。
 そして、この世界に生きる全ての人間が、徐々にだが確実に、それに飲まれ始めている。

 遂に『終わり』が始まったのだ。


 続く

第十七話へ

目次へ

第十九話へ