目の前に立ち塞がる大きな壁。それを乗り越える為のハシゴを見つけるのは、決して楽な事じゃない。加え、他者から与えられるのを待つのは無意味だ。
なぜならそれは、探す物ではなく、また人から与えられる物でもなく、全て自力で作る物だからだ。それがどれだけの高い壁なのかを他者が知る訳も無いのだから当然だ。
大体の寸法も必要最低限の材料も、全て求め得るのは自分自身。
だからこそ乗り越えた時に教訓を手に入れられる。時間、体力、その他もろもろ、あらゆる物を少しずつ犠牲にしてはじめてそれを得る事ができる。
その為の創作行為。加奈ちゃんと俺は、それをしなくてはいけない。そしてそれにもっと早く気がつくべきだった。でも、きっとまだ遅くはないはずだ。
「箸が止まってるぞ〜」
気の抜けるような姉ちゃんの声と共に、文字通り目の前に箸の先端が押し寄せてきた。俺は驚いて身を引くと、その勢いで椅子ごと後ろに倒れた。
「あ〜あ。何やってんだかね」
姉ちゃんは呆れたように言った。
こちらの気も知らないでよく言う。加奈ちゃんの事で一杯一杯なうえに、椅子ごと転がって頭を強打したと言うのに。
「どうせまた、加奈ちゃんの事考えてたんでしょ?」
俺は立ち上がって椅子に座りなおした。
「……ああ」
「……またなんかあったんだね」
「何でわかんの?」
「顔に出てる」
俺は何気なく顔を摩ってみた。そんな事をしても無意味だと分かっていながら、何も言い返せないもどかしさが手を動かした。
「正直に話してよ。あんたの彼女は私の友達なんだから」
暫くの間の後、俺は正直にこれまでの事を話した。
今まで聞かされていなかった事実が少しずつ浮き彫りになるにつれ、姉ちゃんは目を見開き、大驚失色と言う風に口を閉ざし耳を傾けた。
友に迫る確たる死に対する戸惑い。そしてその事実を末期になるまで知らされなかったという微かな怒り。ふと目に止まった姉ちゃんの手は、まさにそれを表現しているかのようにわなわなと震えていた。
「……なんで黙ってたの?」
「……ごめん」
「……なんでもっと早く言ってくれなかったの……」
俺は何も言い返せなかった。都合のいい相づちでさえ。
箸は完全に止まり、ただブラウン管の向こうの芸能人だけが派手に動き回っていた。静寂しきった家の中で、音と言える音も、みんなテレビから響く笑い声だけだった。
「……お父さんとお母さんが事故で死んだ時の事、覚えてる?」
突然、姉ちゃんは切り出した。
「四人で外で晩御飯食べようってなって、出かけた矢先の事故。あの時運転してた父さんは即死だったけど、後ろに座ってた俺と姉ちゃんは辛うじて無事。でも助手席の母さんは文字通りの瀕死。もうどうしようもなかった。でしょ?」
「あの時、あんたはまだ意識が戻らなかったから無理だったけど、私はお母さんの……死に目に会えたの。見るからに苦しそうだったけど、でもすごく安らかだった」
ふと脳裏に、母さんの姿が浮かんだ。正直怒られると父さんよりも怖い、そんなイメージがすごく強く残っていた。
「そんなお母さん見てたら、なんでだろう、私も自然と笑顔になってた。お母さんの手を握って、お母さんの最後の言葉を聞き逃すまいって、ずっと耳を傾けてた。そしたらお母さん言ったんだ。『最後に美咲の笑顔が見れて良かった』って」
姉ちゃんは、似合いもしない涙を静かに流していた。姉ちゃんの涙を見たのは、もしかしたらこれがはじめてかも知れない。
姉ちゃんは滅多なことがない限り泣かない。少なくとも俺は見たことがない。でも両親の死後、俺に気付かれないように声を押し殺して泣いていたんだと思う。
それを思うと、中学生の俺をいつも引っ張って振り回していた姉ちゃんの姿が、すごく痛々しく見えてきた。
「……加奈ちゃんが死んじゃうのを止める事は出来ないんでしょ? なら、加奈ちゃんが死ぬその時に、あんた、そんなシンミリした顔してたら承知しないからね。泣いていても構わない。でも、最後の最後は必ず、笑顔を見せてあげんだよ」
彼女の目に、最後の最後まで、最愛の人の笑顔を焼き付ける。それは加奈ちゃんの彼氏として、彼女にしてあげられる最後にして最大の善行。
俺は、俯いたまま無言で頷いた。口を開けてしまうと、泣いているのがわかってしまうから。
その日、病院へ行くといつもよりも明るい加奈ちゃんが居た。相変わらず日に日にやつれてはいるけれど、まるで何かが吹っ切れたような清々しい表情で俺を迎えてくれた。
ベッドの横の丸いすに、いつものように座る。こうやって座る事が半分習慣になっていた。
それは『慣れ』とは少し違っていた。もう『当たり前』だった。陽がまたのぼりくりかえすように。人が生まれ、そして死んでいくように。
「調子はどう?」
という言葉も、もはや『当たり前』になっていた。
「ほんとは少し辛いんですけど……でも大丈夫です」
「本当かな」
俺は微笑しながら続ける。
「加奈ちゃんは一人で無理する所があるからな」
加奈ちゃんも同じく微笑した。
笑顔の先に見え隠れする微かな疲れに気付かなかったわけではなかった。でも、彼女の笑顔の前では、無理に指摘する気が起きなかった。
「私、あれからずっと考えてました」
暫くホームページのBBSの事で話していた後、ふと彼女が言った。
「前は、生きれるだけ精一杯生きて、その中でたくさんの物を得る事が人生だって思ってたんです。でも違う。本当は、人は生まれたその時から寿命が決まっている。でも、その寿命は皆同じじゃない。例えば、センパイはこの先五十年以上生きれる。でも、私はもうすぐ死んでしまう。そんな具合に」
「つまり、加奈ちゃんがこの病気で近いうちに死んでしまう事は、この世界で生を受けたその時から決まっている絶対的な運命だ、って事?」
俺の問いに、加奈ちゃんは頷いた。
「でもそうだった時、長く生きようと望む事は限りなく無意味で、先があるからって考えて物事を先延ばしにすると損をするだけで、いい事は何も無いんです」
加奈ちゃんは続ける。
「だから、今この瞬間を大切に、精一杯生きる。生きる事の本当の意味って、そういう事なんじゃないかなって思うんです」
加奈ちゃんの言っている事は、正直言ってかなり理想論に近い。でも、俺はそれを否定したくない。これから先、出会う人々全てに伝えて行きたい。それこそ理想論かもしれないのだけれど。
「明日死のうが、明後日死のうが、関係ありません。今この時をセンパイの隣で生きれるなら」
俺はそっと加奈ちゃんの頭を撫でた。彼女はハニカミながら小さく笑った。
加奈ちゃんはやっぱり強い子だ。俺はいまだ、完全に加奈ちゃんの死を受け入れ切れていないのに、彼女はもう受け入れ、そして前向きにとらえている。
加奈ちゃんには、心を強く持つ事の大切さを十二分に教えられた。俺から加奈ちゃんに教えられる事が何もないのが残念だけど、でもその分、懸命に生きる加奈ちゃんの隣で共に生きたい。
そう。俺は生きたい。加奈ちゃんの死ぬその瞬間まで、加奈ちゃんのそばで生きていたい。日に日にか細くなるその手を握り、温もりを感じ、彼女の理想を支えてあげたい。
「……なんかやっと、俺もこの現実を受け入れる事ができた気がするよ」
「本当ですか?」
俺は頷いた。
「よかった。ちょっと寂しい気もするけど、すごくうれしい」
「でも……加奈ちゃんは辛くない?」
俺はそっと彼女の手を握った。カサついた手にはまだ確かに温もりがあった。
「やっぱり……少しだけ」
反対側の手の指でジェスチャーする加奈ちゃん。手の動きでさえおぼつかなかった。
「でも、その何倍も何倍も幸せです」
「……なんで?」
「こんな人生でも、私は小説を書く事の喜びを知る事が出来た。こんな人生でも、私はセンパイに出会えた。こんな人生でも、私はセンパイの彼女で居られる。そして今は、私の隣にセンパイが居てくれる。こんな人生で、本来なら味わえないぐらいのたくさんの幸せを、センパイから貰えましたから」
「……そっか」
俺はそっと抱きしめた。彼女の口から発せられたその言葉だけで、涙が零れそうになった。それを堪えながらのせいか、抱く力が少し強くなってしまった。
「センパイ、痛いですよ」
「あ……ごめん」
俺は離れ際に軽くキスをした。そして体を離すと、そっとベッドに寝かせた。
刹那、微かに咳き込む声が聞こえた。俺は、そんな微かな衝動に一つに凄い敏感になっていた。
「……どうした?」
「え? 何がですか?」
はたして彼女は俺をからかっているのだろうか。仮にそうだとして、正直、俺はそういう彼女の意思に乗れるほど今現在心にゆとりはなかった。
「咳しなかった? 今」
「いえ〜。してませ――」
微笑が一気に崩れた。言葉を遮ってまで発する咳。不安がこみ上げてきた。
「大丈夫?」
俺が声をかけてみても、うまく言葉として返すことが出来ない。間隔がどんどん短くなり、喘息の発作のように呼吸が上手くできていなかった。
加奈ちゃんの背中を摩りながら、俺は右往左往になっていた。その時、ふと加奈ちゃんが手を伸ばした。それに届く事は無かったが、彼女は明らかに、俺にそれの存在を気付かせようとしていた。
俺はそれを手にとってすぐにボタンを押した。自分の為じゃなく、人の為にナースコールを押したのは、これが初めてだった。
「もう限界なんだろう。体中の筋肉が衰えてきている」
田代先生は言った。
「もってあと一週間、といった所だ」
「……そう……ですか」
「……まるで覚悟していたような口調だね」
以前はよほど取り乱していたのか、或いはすごく痛恨の表情をしていたのかよく分からない。だが、俺の口調の微かな変化に彼は気がついたのかもしれなかった。本人である俺は全く気がつかなかったのだが。
「そうですか?」
彼は頷いた。
「現実を、受け入れる事のできた証拠だ」
「出来たからって喜べやしませんけど」
「だが大切なことだよ。受け入れる過程も、その結果も」
と、彼は一息ついて続けた。
「彼女の臨終の際、おそらく筋肉の衰えから来る激痛が彼女を襲う。そうなれば、辛い最後を迎える事になる。だから最終的にモルヒネを注射し痛みのない死を迎えさせる予定で居る」
痛みのない死。眠るような死。最後の最後まで痛みに悶え苦しむ姿を見て終わるよりは、その方が良いのかもしれない。
最良の選択だと思った。彼女の両親でも無いのにこんな事を言うのは間違っているのかもしれないが、俺はその選択になんの異論もなかった。それが、彼女にとっても最良の選択だと思った。
「後の一週間を、君は彼氏としてしっかり支えて上げなさい。彼女からの多少の無理は、出来る限り承諾するつもりだ」
俺は一言、ハイといって彼の診察室を出た。
彼女は今元のベッドで寝ている。遠くから顔を見る事しか出来なかったが、とても安らかだった。あんな様子で彼女は死んでいくのかと思うと、思わず涙が零れそうになった。でも、それについては俺も彼女も受け入れたはずなのだ。ここで涙を流すのは、たぶん間違っている。
俺はそのまま病院を後にした。空はもう暗く、雲はなかった。肌寒い風が、空を見上げる俺の頬を撫でた。
数日後、加奈ちゃんが久しぶりにホームページのBBSに書き込みをしたいと言い出した。なんだかんだで加奈ちゃんは一ヶ月以上もBBSへ書き込みをしていなかった。
彼女の入院中、大半の返信はずっと俺が代わりにやっていた。だから、最後のお別れぐらいは自分で書きたい、との事だった。
それには俺も賛成だった。けど問題は、病院内でネットが使えないという事。何処か他の場所で通信せざるを得なかった。
「じゃぁ……あそこに行きたいです」
彼女はやや苦しそうに言った。筋肉の衰えのせいだ。
衰えが著しく、最近では手足を動かす事はおろか、食事も喉を通らない時もあるらしい。彼女自身食欲が無いのも重なり、ここ最近食事を取っていないそうだ。
「どこ?」
「あの……噴水」
「ああ。あの時行った噴水ね」
確かに、彼氏彼女の関係であそこへ行くのは始めてだ。加奈ちゃんが行きたがるのも無理はない。
でも、はたして田代先生から許可が下りるかどうかだった。『多少の無理は、出来る限り承諾するつもりだ』とは言うが、彼にも限界がある。
「いいだろう。そういう事なら許可をだそう」
思わず気が抜けそうになった。いくらなんでも、あの商店街の方まで出る事は無理だと思っていた。
「大丈夫なんですか?」
「構わないよ。彼女のしたいようにさせてあげなさい」
いまだ彼の言葉を完全に信じきれていない様だった。俺は「はぁ……」と間の抜けた返事をし、加奈ちゃんの病室へ戻った。
「どうでした? センパイ」
「許可が下りたよ。日が落ち始めたら行こうか」
相変わらず人が多かった。加え気温も低い。加奈ちゃんと俺は出来る限り厚着をして噴水へ向かった。
加奈ちゃんは、商店街の様子を懐かしそうに見ていた。そしてもう見る事のできない子の風景を、しっかり目に焼き付けていた。
噴水の前に到着するなり、彼女は感無量と言う風に溜息をついた。目の前には、あの日と同じ黄金色に輝く噴水があった。
「キレイ……ですね」
「ああ。相変わらずキレイだ」
俺は持って来たパソコンを起動しネットに繋いだ。なれた手順でホームページを開き、BBSのページを表示する。
「みんな……久しぶりだな……」
ふと、加奈ちゃんは言った。
「久しぶりなのに……お別れの挨拶か……」
「……手伝おうか?」
彼女は首を横に振った。そしておぼつかない指で、ローマ字の一字一字を一つずつ入力していった。 カタ、カタ、と、ディスプレイにゆっくりと文字が写される。その行動一つ一つが、とてもいとおしかった。
三十分ほど経ち、彼女はようやく書き込みを終えた。とても短い分ではあるけど、お別れのメッセージとしては十分なほどだった。
「今までご愛読ありがとうございました。もう小説を書く事は出来ませんが、執筆活動はすごく楽しく、そして皆さんの感想はいつもその励みになりました。ありがとうございました。さようなら……か」
「少し……寂しいですけど……本当に楽しかった」
「そうだね……」
黄金色の噴水は、まだ辛うじて光を放っていた。だが時間が時間だった。もうすぐこの輝きも、今日は終わる。
加奈ちゃんは、輝きを失うその瞬間までずっと噴水の方へ目を向けていた。瞳にその輝きを写し込むように。瞳が、その輝きを忘れないように。
「……冷え込んできたし……そろそろ行こうか」
「……ハイ」
加奈ちゃんは静かに頷いた。俺は彼女の車椅子を百八十度反転させ、病院への帰路についた。
加奈ちゃんの……最後の外出が終わった。
続く
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