初めて来た人へ

―第十六話―

 その日は雲一つない晴天だった。少し肌寒かったが、見上げればそれこそ文字通り青色一色だった。
 今日、加奈ちゃんは旅立つ。実際に旅と呼ぶには、それはあまりにも儚く辛い事ではあるが、でもやはりある意味で旅立ちなのだった。だから、天使が彼女を迎えに来るにしろ彼女が自分自身で天へ上るにしろ、その門出を、青空が世界中を繋ぐように広がっている日に迎えられた事は、それはそれで幸せなのかもしれなかった。
 病室には、他に加奈ちゃんの両親と田代先生が居た。加奈ちゃんに最後の別れをするべく、両親はベッドの側へ寄る。
 加奈ちゃんのお母さんは涙を流しながら、これまでの事を一つ一つ思い出すように話していた。それは、お母さんが加奈ちゃんと生き、あらゆる感情を共有しあった大切な時間のリコンファーメーションのように思えた。大事な門出で、何一つ忘れ物をしないよう、加奈ちゃんが生きている間にお母さんがしてあげられる最後の親心の結晶。
 加奈ちゃんは、お母さんの言葉一つ一つに笑顔で答えていた。彼女もきっと、今までの思い出を振り返りながら、自分が生きてきた道のりと、そこに残してきた軌跡を再確認しているのだろう。
 加奈ちゃんのお父さんは寡黙な人だった。彼もまた、お母さんの後ろで二人の会話に耳を傾け、時には話の輪に入り共に思い出を振り返っていた。寡黙ではあれど、その少ない言葉には温かみが溢れんばかりにこもっていた。
 両親に愛され、心配される。もう俺には経験できない家族の温かみ。絆が消えた訳ではないけど、その存在を目で見れない分、加奈ちゃんが羨ましかった。でも、本当はそうも言っていられない。加奈ちゃんも、その両親も、もうお互い会う事が出来なくなるのだから。
 歩くのもままならぬほどに泣いているお母さんと支えながら、お父さんが俺の元へやってきた。そして静かに口を開く。澄んだ声の持ち主だった。
「加奈がお世話になったね……加奈と……話してやってくれ」
 俺は無言で頷くと、そっとベッドの側へ寄った。そこに居る加奈ちゃんは、酷く窶れ、初めて出会った頃の面影をほとんど失っていた。
「もう……お別れなんですね……」
 俺は筋肉のほとんど残っていない彼女の手をそっと握った。
「センパイ……ううん、岳志さんと一緒に居た時間は……すごく楽しかったです」
「なんで変えたの? センパイって呼ばれる方がしっくり来るのに」
「最後だから……名前で呼びたいんです。だから岳志さんも……『加奈』で……お願いします」
「……分かった……」
 俺は続けた。
「俺も、加奈と一緒に居れてよかった。ステキな小説にも出会えたし、何より加奈の彼氏で居れた」
「私も……始めて付き合った人が……岳志さんで……本当によかった……」
 笑顔だけれども、目からは微かに涙が流れていた。自分ではもう拭えないから、俺が代わりにそれを拭ってあげた。彼女は言った。
「岳志さんは……輪廻転生って……知って……ますか?」
「輪廻……仏語か何か?」
 加奈は小さく頷いて続けた。
「人の魂は……転生を繰り返して……またいつか現世に戻ってくるって言う……教えの事です。そして人の魂は……それを繰り返していくうちに……また今と同じ魂たちと……めぐり合うんですって。だから私は……またいつか必ず岳志さん……に会えるんです」
 加奈ちゃんは小さく深呼吸をした。喋る事も既に辛そうなほどだった。
「私は……悲しくなんてありません……。岳志さんにはたくさんのモノを……貰いました。だから私は……それを胸に抱きながら……またいつか岳志さんに会える日を……待っています」
 俺は、涙を流しそうになりながらも、加奈の手を優しく握り、彼女の言葉に一心に耳を傾けた。
「岳志さんはこの先……この世界で沢山のモノを……見たり聞いたり……しますよね。またいつか出会えた時……その時は私に……私が居なかった時に見た事聞いた事を……たくさんお話してください」
「……ああ……分かった」
「約束……ですよ……」
 俺は、握っている加奈の手の小指と自分の小指とを引っ掛けた。暗黙の指きり。彼女は優しく微笑んでくれた。俺も、泣きそうになりながら微笑み返した。
「……私の事……忘れないで……くださいね」
「そんなの当たり前だろ……忘れる訳ないよ……忘れるもんか……」
 とうとう、涙を堪える事が出来なかった。噴き出すように流れる涙を拭いもせず俺は言った。
 加奈の口から小さく「ありがとう」と聞こえた。そのまま彼女は続ける。
「……でも……絶対私に……縛られないでください。……またすぐ……素敵な恋を見つけてください……」
「……ああ。分かったよ」
 それが彼女の最後の望みなら、俺はそれを全うする。必ず。
 そういう意味も込め、俺は加奈とキスをした。
 加奈の顔は、もう俺の知っている加奈の顔じゃなかった。でも、今ここに居る人は、ここにある顔は、重ねている唇は、全て俺の彼女……加奈の物だ。だから何の問題も無い。
 唇を離した時、田代先生が俺の横に並んだ。もう、時間なのだ。
「……加奈……」
「それじゃ岳志さん……さ――」
「――さよならは……言っちゃダメだ」
 俺は続けた。
「またいつか必ず会える……なら挨拶は『さようなら』じゃない。『行ってきます、行ってらっしゃい』……でしょ?」
「……そうですね」
 加奈は微笑んだ。最後の最後まで、笑顔を絶やさない子だ。
 俺は再び、加奈を唇を重ねた。この現世での、最初で最後の『行ってきますと行ってらっしゃいのキス』。
「また出会えたその時は……」
「……『ただいまと……お帰りなさいの……キス』……ですね……」
 俺は頷いた。出来る限り、優しい微笑で。最後の最後に必ず、笑顔を見せてあげるために。笑顔で別れるために。
「それじゃ……改めて……行ってきます」
「ああ……行ってらっしゃい……」


 涙はその日の夜に出し切った。家へ帰るなりすぐさまベッドで横になり、声を押し殺して泣き続けた。食欲も無かったし、ずっとずっと泣き続けた。
 気がつくと寝ていて、起きたのは翌日の朝十時過ぎだった。全てが夢であればよかったという願いとは裏腹に、無理やり現実へ引き戻された不快感が俺を襲った。
 しぶしぶ起きると、姉ちゃんが居間で寛いでいた。ソファーから突き出たように見える首を回し、一言「おはよ」と言った。
 俺は姉ちゃんの隣に座った。姉ちゃんの隣は久しぶりだった。朝で、普段どおりの、下は下着のみで上はシャツ一枚、というラフな姿で居るのにも関わらず、香水の香りが漂ってきた。弟の俺が言うのもなんだけど、すごくいい香りだった。
「……ちゃんと笑顔で別れた?」
「……ああ」
「……辛かったね……。私もよ〜く分かるよ」
 正直涙が出そうになった。でも、流しきって涸れた涙腺からは血さえ流れなかった。
「いつまでもくよくよしていたら加奈ちゃんに申し訳がないよ。辛いかもしれないけど、通夜と葬式を済ましたらちゃんと学校に行きなさいよ」
 俺は黙って頷いた。姉ちゃんの言う事はもっともだったし、加奈の事を思うなら、やっぱりそうすべきなのかなとも思ったから。


 両親が死んだ時に二つ、そして加奈が死んでまた一つ。俺の心には三つの穴が開いた。
 この穴は何を使ってでも塞がらない。それは、世界に一つしかない大切な者、人を失ったからだ。俺はこの絶対に塞がらない穴と一生ともに歩まなければならない。それは酷く切なく、悲しかった。
 学校の窓から覗く午後の空は雲一つ無い青一色で、あの日の空と似ていた。あの空を仰ぐ事しか俺には出来ないけど、加奈はきっと、自分の育った街を見下ろしながら上ったのだろう。
 今彼女は、向こうで何をしているのだろうか。そんな事ばかり頭に思い浮かんできた。きっと何不自由なく過ごせているんだろう。願わくば、車椅子は無しで生活していてもらいたい。
 空を見上げながら俺は溜息をついた。刹那、背中を誰かに強打された。衝撃は肺に至り、俺は激しくむせた。
「おま……新……んのやろ!」
「元気ねぇな〜、お前」
 俺は相変わらず咳がやまなかった。その様子を見て、彼は笑った。
「……大体予想つくよ。元気ねぇ理由。でも、そんなお前の姿をその子は望んでいるのか」
 腕を俺の肩に回した新は、相変わらずのテンションだった。でも、いくらなんでも彼は加奈の死を自分で悟ったとは考えられない。彼はそういう人間だからだ。
 でも、彼には少しばかり感謝したい。何だか、彼の側に居ればこの悲しみも少しは和らぎそうだった。この悲しみは絶対に忘れてはならない。でも、それに縛られてはならない。その辺りの修正を、彼と言う存在は友人と言う形で務めてくれる。そんな気がした。
「……ンな事、お前に言われなくったってな〜!」
 俺は彼の腕を取り、そのまま関節技に持ち込んだ。姉ちゃんに鍛えられ、のぞんでもいないのにいつの間にかそんな技が身についていた。
「いでででで!! ちょ、ま、待てってば!! ギブ、ギブ!!」
 彼はそう喚いた。だが、それでも俺は止めなかった。彼とこうしている時間が、なんだか無性に嬉しかった。決してサディズムではないのだけれど。


 放課後、保健室へ寄った。八重樫先生も加奈の通夜と葬式に出席していた。その場で先生も、俺と同じく涙を流した。
「森野君に言ったのは私」
 先生の突然の告白に、俺は一瞬戸惑った。
「彼、今日学校に来た石井君の様子がなんかおかしいって言うから、加奈ちゃんと何かあったのかって……。言うかどうか迷ったんだけど……迷惑だった?」
「……あ、いえ。そんな事は……」
 そう言うと、先生は、
「そう、よかった」
 といって微笑んだ。
 先生は、以前と同様に紅茶を入れてくれた。俺はその紅茶を飲みながら、病院での加奈の様子を先生に少しずつ教えていった。
 不思議と加奈との思い出は次々にあふれ出てきた。忘れかけていたようなほんの些細な事でも、鮮明に思い出せた。八重樫先生は、時々目を潤ませながらその話に耳を傾けた。傾け続けた。俺の言葉の波から加奈の実態を探し出そうと、ただ静かに、一心に。
「加奈が言ってました。人は生まれたその時から寿命が決められていて、それは変える事のできない絶対だから……だから、今この瞬間を大切に、精一杯生きる。それが生きる事の本当の意味だって」
 俺は続けた。
「正直、それは加奈自身の考えであり答えであって、皆にそれが当てはまるとは限りません。こういう事は、それこそ十人十色だと思うから。でもその答えって言うのは、加奈がこの世界に誕生し、生きた十七年間の中で導き出した答えなんですよね」
「……そうね……そう。加奈ちゃんが悩んで導き出した、立派な答えよ」
「……加奈の答えは、きっと加奈だから導き出せたものだし、きっと俺には俺の、もっと別の答えがあるのかもしれない。でも俺は、加奈の導き出したその答えがすごく好きだから……それを自分の答えにも出来るような、そんな人生を……この先歩みたいです」
 そんな大業を成し遂げられるかは分からない。根が根だけにマイナスに考えがちになる。でも、そうやって逃げていては成し遂げられるものも成し遂げられない。何年かかっても構わない。俺は俺の道を歩みながら、加奈の生きた道もなぞってみたい。後ろ向きにではなく、あくまで前向きに。
「……ステキな彼氏を持ったのね……加奈ちゃんは……」
 俺は首を振った。俺はステキでもなんでもない。俺を、このもう一つの出発点まで導いてくれた加奈が、何よりもステキなだけだ。
 俺は、残りの紅茶を飲み干そうと一気に口へ流し込んだ。舌を火傷したのか、すごくヒリヒリした。その様子を見てか、先生はクスクスと笑った。





 俺は、ディスプレイの『完了』をクリックした。これで最後の更新が終わる。加奈の最初で最後の大作は、このインターネット上でも終わりを迎えた。
 俺は床に寝転がった。家の居間から見える空はまさに晴天。加奈が死んでから一年と一ヶ月。先月の墓参り以降、晴れの日が続いていた。十一月の半ばはさすがに寒いが、晴れているとやはり清々しかった。
「あれ? まだいたの?」
 ふと頭の上の方から姉ちゃんの声が聞こえた。
「今日、由紀ちゃんとデートじゃなかったっけ?」
 と、姉ちゃんはニヤニヤと笑っていた。
 ここで俺が大慌てで用意でもし出せば、姉ちゃんとしては面白可笑しいことこの上なかっただろう。でも、俺もバカじゃない。由紀との待ち合わせの時間まで、まだ三十分はある。
「おあいにくさま。ちゃんと分かってておりますから」
 そうわざと嫌みったらしく言い、パソコンを持って自分の部屋へ戻った。まだ時間はあるけれど、少し早めに出る事にした。久しぶりに、あの青空を仰ぎたかった。


 この一年で、周りの状況は色々と変わった。
 姉ちゃんはなんだかんだで会社に就職。遊び人を辛うじて卒業、普通のOLとして社会に貢献している。もともと頭も良く飲み込みも早い方で、何より順応性が物凄く高い人だから、きっとそれなりにやっていけるだろう。来年の頭ぐらいには本格的に一人暮らしをするそうだ。
 八重樫先生は他の学校へ転任。田代先生は相変わらずあの病院で仕事をしている。一ヶ月前の加奈の墓参りで二人と久しぶりに再会したけれど、田代先生はトレードマークの顎鬚をそっていて、サッパリとした顔つきをしていた。
 そして俺と新は学校を無事卒業。新は地元の大学へ入学。俺は金銭的な理由で受験せず、就職先を探しながらバイトを掛け持ちする生活を送っている。
 由紀とは今年の一月ごろ、生まれて初めてのバイト先で知り合い、そのまま流されるまま付き合い始めていた。当たり障りの無いオープンな性格で、時々そのテンションについていけなくなりそうになるけど、常に突っ走り続けようとする彼女をなだめるのは何だかんだですごく楽しかった。
「就職先は見つかった?」
「それがまだ」
「そう」
「やっぱ普通高校しか卒業してない人間がいきなり就職って言うのも、無理があるんだよ」
「なんで私んとこみたいな商業高校にしなかったの? 就職率結構高かったんだよ」
「そこまで頭が回らなかったんだよ。だって中学生だし」
 由紀は「ふ〜ん」と言い目線を前のほうへ戻した。ぶっちゃけた話、彼女自身も当時はそんな事微塵も考えてはいなかったのだろうが。
「由紀こそ、最近の専門学校はどうなの?」
「すっごく楽しいよ。やっと本格的って感じ」
 その話題を待っていたかのように、彼女はテンションを上げて言った。
「あと、先生の紹介でライブハウスの照明のセッティングも手伝わせてもらったの。バイトだけど、こっちもすごく本格的だった」
「マジ?」
 由紀は「マジ、マジ」と言って笑った。彼女は工学系の専門学校で、主にアーティストのライブ会場の照明セッティング等を含めた裏方の勉強をしている。昔からそういう場で働いてみたいという希望があったのだそうだ。
 好きな事を勉強し、そして仕事にしようと一生懸命努力している由紀の姿はすごく輝いていた。そしてその一生懸命さが、どこと無く加奈と重なった。
「岳志は、なんかやりたい事とかないの?」
 俺は首を振り続けた。
「なんか……普通にサラリーマンやって、平凡に暮らして、その平凡の中で幸せを見つけられたらな、って思う」
「ふ〜ん」
 そう言って俺の方を見た由紀は、なぜかニヤニヤとしていた。俺は「なに?」って聞いてみたが、彼女は「べっつに〜」と意味ありげに言った。
「なんか詩人みたい」
「そう?」
「ってか詩人になったら?」
「いいよ。才能ないし」


 加奈は言った。「絶対私に縛られないでください。またすぐ素敵な恋を見つけてください」と。加奈の言った事は、こういう事なのかな。そう、空を仰ぎ加奈に問いかけた。
 見えないけど、加奈が優しく頷いてくれた気がした。真っ直ぐなあの微笑みで、優しく、けど強く、頷いてくれた気がした。涙は、きっと流してはいないだろう。
「……どうしたの?」
 隣の由紀は、俺のジップブルゾンの袖を小刻みに引っ張った。
「……なんでもないよ」
 俺は由紀の方を見て答えた。
 俺の隣を一緒に歩く、彼女である由紀に。
「……詩人よりも俳優の方がいいんじゃない?」
 俺は、由紀のその言葉に、小さく笑った。
 そして言った。由紀と、空で見守ってくれているだろう、加奈に。
「ま……がんばるよ……」

     <完>


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