初めて来た人へ

―第十四話―

 加奈ちゃんが執筆を再開した日から六日程が経った。九月ももう終わりが近く、学校を始め世間では衣替えがはやっている。
 けど、衣替えなど俺や加奈ちゃんにとっては関係がなかった。加奈ちゃんは常に女の子らしいパジャマ姿だし、加奈ちゃんに会いに行く俺は常にガウンとマスクとキャップだ。消毒済みの。
 九月の終わりへ近づくにつれ、加奈ちゃんの小説も次第にクライマックスを迎え始めていた。彼女が中学生の頃から書き始めた小説も、ようやく終わりを迎えるのだ。無数にある流れの一つが、この世界からその姿を消す。
 でも、それは辛い事でもなんでもない。むしろ、誇りに思うべき事なのだ。そのために費やしてきた時間は、とても充実した楽しい時間だったと、加奈ちゃん自身も言った。
 だから、それらを何一つとて無駄にする事無く、物語を書き上げられる事が何よりもうれしい。俺はそう話す加奈ちゃんの頭を軽く撫でながら頷いた。
 けど、俺の掌の下の彼女の微笑みは、日に日にやつれていった。まるでシャーペンを媒介に、紙に描く字の材料として使われているかのように、愛しく思うほどのあの弾力が失われていく。心が痛んだ。
 見て見ぬフリはもはや出来そうに無かった。おそらく彼女自身も、何らかの形で自分のやつれた姿をその目で見ているはず。彼女に近づく確たる死を隠すのも、限界があった。
 でも俺からはとてもじゃないけど言えなかった。もちろんその気持ちは両親だって田代さんだって同じはず。俺は、自分には言う資格など無い、という自分勝手な理由を盾にし逃げるしかなかった。
 いますぐに抱きしめたかった。その狂おしいほど愛らしい加奈ちゃんと言う存在を。でも今の加奈ちゃんは、そうした瞬間にもろく崩れてしまいそうで。
 時々、体の節々が痛むのだそうだ。気にならない程度の物から、思わずナースコールのスイッチを押してしまうほどまで、痛みはその時々で変わるのだけど。田代先生からは、あまり激しく体を動かしたりはしないよう言われているらしい。
 だから余計に彼女を抱きしめられない。それが、たくさんの嬉しさを込めていたとしても、結局単なる苦痛でしかないのなら。
 頭をなで、笑顔で会話し、本当は許されないキスをする。限られたスキンシップの中で、俺達は愛を感じていかなくてはならない。それが寂寥であるという訳ではないが、それでもつらい物があった。
 加奈ちゃんは、起こしたベッドに寄りかかると小さく溜息をつきペンを置いた。
「ちょっとだけ休憩。腕が疲れちゃいました」
 加奈ちゃんは小さく笑い、右手を開いたり閉じたりした。
 俺は開いたままのノートを手に取る。
「ちょっとだけ読んでみても良い?」
「ダメです」
 加奈ちゃんは間髪いれずに、俺の要求を拒否した。思えば、ここまではっきりと拒否されたのは今回が初めてだった。
「え〜。いいじゃん。ほんのちょっとだけ」
「ダメですよ。明日になってからのお楽しみです」
 寄りかかっていた体を起こし、俺の手中にあるノートを取ろうと手を伸ばす。でも、当然その手は俺に届くはずもなく。一生懸命になっているそんな彼女がまるで小動物のようで可愛かった。
「も〜。返して下さいよ〜」
「ほんとに少〜しだけ。いいでしょ?」
 そう言って頭を下げた。暫くその姿勢でいると、加奈ちゃんの顔から微笑が零れた。どうやら観念して折れてくれたようだった。「少しだけですよ」と念を押すように言うと、再びベッドに寄りかかった。俺は、ベッドの横の丸いすに座ると夢中で小説を読みふけった。
 少しだけと言う約束も忘れ、気がつくともう書き止まっている部分まで目を通していたのだった。
 とっさに彼女の方を見た。もしかしたら怒っているのかも知れない、と。
 でも、当の本人は、俺の居る場所とは正反対の所を見ていた。窓の外。少し強い風が、外から見える木々を揺らしていた。
 秋と言う季節が緑の薄くなった木々の葉を少しずつ持ち去っていく。枝の肌がだんだんと露出していくなか、あれほどの強風にあおられながらもなお懸命に枝にしがみ付く数枚の葉。
 おそらく彼女はそれを見ているのだろう。瞳はその葉に向けられ、その懸命さに何かを感じ取っているようだった。或いは、センチメンタルになっているのだろうか。
「……加奈……ちゃん?」
 俺の言葉は、はたして彼女の耳に届いたのだろうか。相変わらず目線は窓の外に固まったままだった。
 少しばかりの胸騒ぎと、得体の知れない緊張。その場の空気と雰囲気が明らかに今までとは違っていた。
 加奈ちゃんはゆっくりこっちへ振り向いた。物寂しそうで、彼女のセンチメンタルを強制されるような、そんな瞳だった。
 だが彼女はすぐに視線をそらした。そして、か細い声で、言った。
「ねぇ、センパイ」
「……ん?」
「私……あとどれくらい生きれるんですか?」
 遠回しに「あとどれくらいで死ぬんですか」と言っている様に聞こえた。実際そうなのかもしれない。けど問題はそこにはない。彼女は自分が近々死ぬ事を前提に問いかけてきた、と言う所に、重大な問題がある。
「ずっと生きれるよ。エイズその物は治らなくても、日和見感染症とか悪性腫瘍とを予防してうまく生活していけば、もっとたくさん生きれる」
「今の肺炎が治らなければ?」
「治るよ。田代先生も、それほど治療が困難な病気じゃないって言ってたし」
「……もしその田代さんが……言ってたら?」
「……なにを?」
「もう……私は死ぬんだって」
 胸騒ぎは、これを予測していたんだと、やっと気がついた。
 死ぬ事を前提に問いかけてきた理由に、やっと気がついた。
 俺は冷静になれなかった。今まで隠してきていた事を、彼女は既に知っていたからだ。
「……先生が言ったんだ……」
 彼女は黙って頷いた。
「そっか……。案外早めに告知したんだな、田代先生」
 その一言に、加奈ちゃんが異様に過剰反応した。掴むシーツにはより多くのシワがより、かすかに震えていた。今この瞬間に、はじめてそれを知らされたことに対する、より所のない不安感が手からあふれ出ていた。
 その様子を見て、俺は少しだけそれを悟り、そして加奈ちゃんの言葉で、全てを理解した。
 俺の犯した過ちに。
「……やっぱり……そうなんですね」
 加奈ちゃんは再び俺の方を見た。自分の存在意義も含め何もかもを訴えかける真っ直ぐな瞳だった。
「私は……もうすぐ死ぬんですね」
 沈黙。聞こえたのは、自分の血の気の引く音だけ。強風が揺らす窓の音も、今は全く耳に入らなかった。
 酷く後悔した。何故、気付かなかったのだろうか。もしかしたら、俺なら気付いてあげられたのかも知れなかったのに。
「……すみません。鎌をかけたりして。でもすごく不安だったんです。本当に肺炎が治るのかどうか……。それに、あからさまに田代さんもセンパイもお父さんもお母さんも隠し事してるように見えたから……」
「本当の事を告知されて一番傷つくのは加奈ちゃん本人だろ? だからみんな言わないでおいたのに……」
「でも、結局死ぬのだからいつかはそう宣告されたんですよね」
 加奈ちゃんは続けた。
「だったら……どんな形ででもいいから……センパイの口から聞きたかった……」
 気がついたら俺も加奈ちゃんも涙を流していた。
 静かに、ただただ頬を流れる一筋の光の如く、外の光を反射する。俺は加奈ちゃんのそばにより、その一筋の光をそっと遮断してあげる。
「覚悟はできてました……。センパイが悲しむ事じゃありません」
 彼女もまた、俺のそれを手で拭う。
「だから……泣かないでください」


 田代先生に事の全てを話すと、ただただ俯くだけだった。さすがはベテランの医師と言うべきか。一つも周章する事はなかった。
「参ったね。彼女に一杯食わされたよ」
 そう苦笑する。そこには、少なからず苦渋が見え隠れしていた。
「すみません……。俺がもう少し注意していれば……」
「君を責めるつもりはない。その権利だって私にはない。むしろ、形はどんなであれ彼女の望みどおりに事が運べたんだ。感謝している」
「……こんな事で感謝なんかされても……ただの過分です」
「君は、彼女の彼氏として精励してくれている」
「でも俺は彼女を助けられない」
 田代先生は何も言おうとはしなかった。彼女を助けられないという現実に直面しているのは、何も俺だけじゃないのに。彼自身医者という立場で精励したのに、最終的には助けるに至らなかったのに、だ。
「……受け入れなきゃならないのに受け入れられないんです」
「誰だってそうさ。私ももう長いこと医者をやっているが、君と同じさ」
 彼は続けた。
「だがいつかは必ず、受け入れなければならない時が来る。その時、流されるまま強制的に受け入れるのは、そうでない時の何倍も辛い」
「先生の体験談ですか?」
「ああ」
 そう言って頷くと、少し間をおくように小さく溜息をついた。
「いいかい。この現実を受け入れる事は誰のためなのか、良く考えるんだ」
 彼は、椅子に座る俺の目線で言った。
「いつまでもいつまでもそれを拒否する事はただの逃避行動。そしてその逃避行動は彼女への軽蔑。死に行く彼女の前で、いつまでもしかめっ面でいる訳にもいくまい」
「……そうですよね」
 俺はただ頷くことしか出来なかった。全ては加奈ちゃんのため。残りの時間を精一杯、そして笑顔で過ごしていく為に。


 それから一週間も経たないうちに、加奈ちゃんの小説は終わりを迎えた。
 所々ファンタジー小説のような戦闘を含めつつも、全体的に少女漫画テイストのラブストーリー。その終わりは、とても儚く哀しい、でも、とても心に残るハッピーエンドだった。
 自然と涙が零れた。まるでそれが必然であったかのように、当たり前に頬を伝った。
 それは感動とか感傷とか、そういうただ地面に転がっているような石じゃなく、それこそレアメタルのような希少な感情だった。一生に一度、それと理解できるほど体感できるかどうかわからない、そんな感情。
 それを加奈ちゃんの小説は、俺の心から引っ張り出したのだ。そして形を涙に変え、溢れるように流れださせた。
 加奈ちゃんはそんな俺を見ていった。
「そんなに泣く事ないじゃないですか……」
 頬を染め、はにかんで笑う加奈ちゃんに、俺は涙を拭きながら言った。
「感動したから泣くのは当然だろ? やっぱり凄いよ、加奈ちゃんは」
「……うれしい。頑張って書いた甲斐がありました」
「さっそく帰ったら更新しなくちゃ」
 俺はそのままカバンの中へノートを閉まった。
 シンとした病室に、ふと、かすかに溜息が響いた。でもそれは、感傷的なそれとは少し違って、まるで諦めを決意したような溜息だった。
「……これで、ようやく死ねます」
 加奈ちゃんの口から漏れた言葉に、俺は心を深く抉られた。そんな言葉を聞きたくは無かったし、何より彼女が自分自身で言ったと言う事が信じられず、傷ついた。
 でも、加奈ちゃんは俺以上に深く深く心を傷つけていたのだ。なのに俺はその時、その事に気がつかなかった。
「……死にたく……ないよぉ」
 執筆活動が終わって、彼女の脳裏に、急に現実が浮き彫りになったからなのだろう。彼女は涙を流しだした。無理も無い。俺でさえまだ受け入れ切れていない現実だ。本人の精神がいくら強くても、彼女にとっては厳しく辛いはずだ。
「もっともっと生きたい……。もっとたくさん生きて、もっと小説を書いて、センパイと色々な所に行って、たくさんキスをして……ホンの少しでもいいからエッチな事もして……ずっとずっとセンパイの傍に居たい」
 俺は、激しく神を恨んだ。神を恨んだのはこれで二度目だ。一度目は両親が死んだ時。あの時も信者に殺されんばかりに神を恨み続けた。手と足だけじゃ物足りない。頭にも釘を刺すべきだ、と。
 とても一途で、人一倍一生懸命で努力家な彼女に、なぜこの様な辛い運命を神は背負わせたのか。こんな酷な運命の中、彼女は何を得、何を残す。
 俺はそっと彼女を抱きしめた。それしか出来なかった。そうする事で何がどうなるわけでもないのだけれど。
 続けざまに俺はキスをした。彼女の希望通りの『エッチな事』も出来なければ『エッチな』ディープキスさえもしてあげられない。
 でも、加奈ちゃんの泣く姿なんて見たくない。残り少ない時間を、精一杯の笑顔で居てもらいたい。だから、少し強引なキスで、全てを止めようとした。
「……せんふぁい……」
 口を塞がれた彼女の言葉に、俺も静かに涙した。

 続く

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