初めて来た人へ

―第十三話―

 加奈ちゃんの容態が急変したのは、姉ちゃん来訪から四日ほど経ってからだった。
 突然チアノーゼを起こし、そのまま意識不明になった。予断を許さない状況が続いていて、当分面会は出来ないとの事だった。
 その事を、彼女の両親の次に田代先生から聞いた。さすがの彼も深刻そうな表情をしていて、俺自身息がつまりそうだった。
 同時に、とてつもない不安が押し寄せてきた。『死』と言う、バーチャルなリアリティだ。
「田代先生」
「なんだい?」
「加奈ちゃんは……治るんですよね……?」
 彼はその言葉が出てくる事を予測していたようだった。そして、それに対する答えを、未だに模索中だと言うように俯いた。
「……最近のエイズに対する治療法としては、核酸系逆転写酵素阻害薬に加え非核酸系逆転写酵素阻害薬、プロテアーゼ阻害薬を併用する事で、感染症を起こす事が非常に少なくなり、死亡率も激減するようになった。この方法なら、血中HIV-RNAは百分の一以下に低下し……と、専門的な事を言っても伝わらないかもしれないが、とにかく、完全に治る事はないが長期にわたりHIVを抑えられる事が可能との見通しが出てきていたんだ」
 彼の目は机の上辺りの空間に集中していた。特に何を見るわけでもなく、或いは目に見えない何かを見ているようだった。
「芳井さんがエイズを発症する前に、その治療法を彼女に対し使おうと試みようとした。けれど問題は、治療法が効く効かないではなく、薬の投与にともなう副作用に彼女の体が耐えられるかどうかにあった。だからその治療法を諦めた。エイズが発症しなかったとしても、彼女の体がボロボロになってしまっては元も子もないからな」
 そこで彼は一息入れると、こちらに視線を向けた。いつもの光沢を、その瞳は放ってはいなかった。
「彼女の体がもう少し丈夫に出来ていたなら、今頃エイズの発症は免れたかもしれない。カリニ肺炎の発症を免れたかもしれない。しかしだからとは言え、彼女の体を責める訳にもいかない。薬に耐えられない体を、責める訳にはいかない。だから受け入れるしかない。薬の効かない体を」
 彼の手は震えていた。拡散されない怒りと悔しさとが溜まった拳は、震えながら汗ばんでいく。
「薬が効かない以上……彼女の免疫力が低下し続ける以上、もちろん最善を尽くすが、治る見込みはほとんど無いと言っていい」
 答えは決まった。やっと出てきた。バーチャルなリアリティは、正真正銘のリアリティに変わった。きっとそれを受け入れるには、いくつものバーチャルの壁を越えなければならないのだろうけど。
「彼女は近いうち、必ず死ぬ」


 バイオリズムが狂いそうだった。正真正銘のリアリティが俺をそうさせた。
 いくつあるのかもわからない大きな壁を越えるたびに疲れ、そしてどうしようもない虚無感が襲った。意味も結果もない、巨大な壁の攻略。そうしなくては受け入れる事が出来ないのであれば、受け入れたくなかった。
 けど、それは単純に逃げなのだ。そして加奈ちゃんは、健康な俺ですらそう思ってしまうほどの辛さを、常に自分で抱えている。
 恋人として彼女の支えになってあげる。それが、田代先生から今の俺にかせされた使命。同時にそれは、俺自身の気持ちでもある。
 けど、それを成し遂げる自信が正直なかった。俺よりも強い加奈ちゃんを、加奈ちゃんよりも弱い俺が支えられるだろうか。


 例えバイオリズムが狂いそうでも、俺はいつものように学校へ行かなくてはならない。それは誰が決めたわけでもなく、バイオリズムが狂うのを防ごうとする行動の結果としての産物だ。
 帰りのホームルームが終ると保健室へ向かった。加奈ちゃんが入院してからと言うもの、保健室へは全く寄らなくなってしまった。
 久しぶりに見た八重樫先生は全く変わった様子もなかった。俺の顔を見ると微笑んで「久しぶりね」と声をかけてくれた。
「彼女がHIV感染者だった事は私もご両親から知らされていたわ」
 黒い皮製の長いすに並んで座りながら先生は言った。
「発病した事は凄く残念に思う。でも、私にしろご両親にしろ、そして加奈ちゃんにしろ、それは覚悟した上での生活をしていたからね」
 手には白い無地の清潔そうなティーカップを持っていた。ティーパックで作った紅茶が湯気を立たせ微妙に波打っていた。
 先生に、加奈ちゃんの死がほぼ確実化した事を話そうかどうか迷った。でも、言わない方が良いのかもしれないと、無意識が口を閉ざした。
「……どうしたらいいんですかね」
「……何が?」
「俺は弱いから……彼女の支えになれるかどうか不安でたまらないんです」
 沈黙。窓の外からは、野球部の掛け声が聞こえた。フィルター越しの声がさらにフィルターを通って聞こえるように、幾重にもくぐもっていた。
 暫くして、先生は小さく笑った。
「そんな事を加奈ちゃんの前で言ってみなさい。平手打ち一発。嫌われるわよ」
 先生はそのまま、カップを口元へ運んだ。一口紅茶を飲むと一息おき続けた。
「本当に弱いのは誰なのか、本当に辛いのは誰なのか、よく考えなさい。そうすれば、その不安もおのずと消えていくはずよ」
 先生の言葉一つ一つが、鮮明に心に響く。黒い心に、決心を言う光を注いでくれる。自分はなんて愚か者だったのだろうか。
「あなたは加奈ちゃんの彼氏でしょ? 常に守ってあげなくてはいけない立場なのよ。自分なりのやり方で構わないから、そのかわり、時間の許す限り精一杯彼女のそばに居てあげなさい。それだけでも十分支えにはなれる。そうでしょ?」
「……はい」
 自分が彼女に出来ることなんてそう多くはない。病気の治療をするのは自分自身であり、医者はそれの手助けをするために居る。
 つまり俺は、自分が出来る数少ない行動をとればいい。何も不安になる事もない。怖がる事もない。一途に彼女を信じ見守ってあげればいい。いつまでも彼女のそばで。
 思わず涙が零れてきた。理由は良く分からない。不安が解消されたからなのかもしれない。
 先生は、そんな俺の頭にポンと手を置いた。
「紅茶、冷めちゃうよ」


 加奈ちゃんの容態は良くなったのは、それから五日後の事だった。
 病状が安泰したという喜びと、久しぶりに会えると言う喜びとが一緒になって、病室へ行くのを急がせた。自分でも分からない間にガウンテクニックを済まし病室へ入った。
「加奈ちゃん」
 病室に入っての第一声。その声に、当の本人は反応して振り向いた。
 その時、そこにいた加奈ちゃんが今までとは少し違って見えた。本人なのは間違いないのだが、何かが違った。的確な部位ではなく、曖昧なシルエット上の何かが。
 ベッドの隣の丸椅子に座る。久しぶりの再会に、彼女も笑顔で迎えてくれた。
「お久しぶりですね」
「ああ。久しぶり」
 そう笑顔で笑った彼女は、やつれていた。どうりで違って見えたのだ。本当に微妙な所ではあるが、でも明らかに、以前に比べやつれていた。
 きっと今回の件や、それに伴う精神的な事が原因なのだろう。彼女の辛さが、じわじわと感じ取れた。
「……少しやつれちゃってますよね」
 はにかむように言った。俺は何も答えられなかった。下手に否定すれば返って彼女を傷つける。ストレートにそうだと答えても然り。自分のボキャブラリーの貧困さを恨んだ。
「……ごめんなさい。こんな顔で」
「そんな事ない。加奈ちゃんはいつまでも、どんなになっても、俺の彼女の加奈ちゃんだよ」
 そう言いながら、そっと加奈ちゃんの頬に触れる。
 乾燥していた。温もりは感じても、以前のような柔らかい弾力はあまり感じられなかった。
 少しずつ、以前まで持っていた彼女らしさが無くなっていっているような気がした。頬の瑞々しさも弾力も。彼女のシルエットでさえも。
 けど、絶対に無くならない彼女らしさが、ある。彼女が生きているという事。そして、それに伴うアイデンティティー。
 それだけは、少なくとも死を迎えるまでは、絶対に無くならない彼女らしさだ。それを守ってあげたかった。
 加奈ちゃんは、頬にそえている俺の手にそっと触れた。
「また会えてほんとによかった」
 気がつくと俺の声は涙声だった。
「一時はどうなるのかって……すげぇ心配したんだよ」
 加奈ちゃんも涙を流していた。俺のマスクの奥から零れる嗚咽に必死に耳を傾けながら、俺の手を握った。強く、自分の存在を主張するように。
「センパイ……」
 加奈ちゃんに呼ばれ、俺は涙を拭い何度か深呼吸をして言って。
「……なに?」
「まだ……してませんよね」
 そうはにかむ彼女を見て全てを悟った。
「そういえば。まだだったね」
 俺はマスクをずらすと、そっと加奈ちゃんとキスをした。六日ぶりの『こんにちはのキス』。
 彼女の唇は、まだいつもの弾力を保っていた。いつまでも感じでいたい、優しい弾力だった。


 加奈ちゃんがいずれ死んでしまう、と言う事は、絶対本人に言わないと決めていた。それが当然の行動だし、然るべき時が来たら、きっと田代先生やご両親から伝えられるだろう。
 その辺は、俺が関与すべき所じゃない。
 だから俺は、自分が関与すべき事の一つをしだそうとした。
 彼女の自作小説を読む事。感想を伝える事。ホームページを更新する事。その為に、彼女にノートを渡す事。
 ノートを取り出すと、それを見て彼女は「あ」と声を上げた。
「そう言えば、ずっとセンパイが持ってたんですよね」
 半分忘れかけていたようだった。無理も無いのだけれど。
「早く続き書かないと」
 加奈ちゃんはベッドのテーブルを出し自分の持ち物の中からシャーペンを出すと、ベッドの上で正座をしてページを開いた。
 すぐにも書き始まった。物語の続きが、もう全て頭の中に蓄積されているような勢いだった。
 そんな加奈ちゃんを唖然と見ていた俺は、フッと我に戻って言った。
「無理しなくてもいいよ。更新は多少出来なくったって平気だし……」
「違いますよ」
 と、彼女は言って一度ペンを止めた。何かを訴えかけるような目で俺を見て言った。
「センパイを待たせたくないんです」
 沈黙。一切の沈黙。
 彼女はどうやらその台詞に、何かしらの自信を持っていたらしい。俺が何にも言葉を繋げなかったせいで、顔を真っ赤にして俯いた。
 きっと相当恥ずかしい事だっただろう。彼女は大きく息を吐くと、テーブルに頭をつけた。
「……センパイのバカ〜」
「なんで……」
「ありがとう、ぐらい言ってくださいよ〜。恥ずかしいな〜、も〜。穴があったら入りたいです」
「突拍子も無くあんな事を言った加奈ちゃんが悪い」
「センパイの意地悪」
 相変わらず俯いたままの加奈ちゃんのベッドに座ると、彼女の頭を軽く叩く。
「意地悪で結構。たくさん意地悪してその分を全部謝るまで、ずっと加奈ちゃんのそばに居られるならね」
 加奈ちゃんの頭を撫でながら言ったこの台詞も、相当恥ずかしかった。耳から始まり顔全体に熱が広がる。加奈ちゃんの気持ちがよく分かった。
 手の内にあった加奈ちゃんの頭が、もぞっと動いた。頭をテーブルにくっつけたまま顔を横にした彼女と目があった。
 加奈ちゃんは微笑んだように見えた。口元が、当人の肩に隠れて見えなかったけど、目だけが笑って見えた。
「センパイもクサイですよ」
 俺は顔をそらし、ワザとらしく舌を出した。
「お互い様じゃん」

 続く

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