初めて来た人へ

―第十二話―

 翌日は忘れずにちゃんと小説のノートを持って来た。
 病室の加奈ちゃんは、昨日のショックがまだ残っているのか、俯いたままだった。『こんにちはのキス』をしようと言う雰囲気ではなかった。
「かーなちゃん」
 出来るだけ明るく振舞う。こんな悲しそうな彼女を見たくなかった。でも俺の行動は、そんな彼女を見ざるを得ないこの状況から逃げているようでもあった。
「今日はちゃんとノートを持って来たよ」
 でも加奈ちゃんは口を開かなかった。俯いたまま、ベッドと自分の顔の間と言う曖昧な空間を見つめていた。
 ビニール越しの加奈ちゃんは、それこそまるで、昨日の俺のようだった。何について考えているのかすら分からないぐらいに思いつめている。
 このまま、魂が離脱したまま、帰ってこないんじゃないだろうか。そんな不安が押し寄せてきた。
 そういう思いがピークに達した時、彼女はとうとう口を開いた。
「……なんで田代さんは……センパイに教えちゃったのかな……」
 ある感情を押しとどめているような声だった。振るえ、悶え。でも、一生懸命さは伝わってきた。
「なんで人に教えなきゃならないんだろう。私一人しか知らなければ、お母さんにもお父さんにもセンパイにも、心配をかけないですんだのに……」
 シーツを掴む手が震えていた。そしてその甲に、一滴の雫が落ちた。それは肌にしみ込みように、放射状にじわじわと広がっていった。
「自分の体の事なのに……なんで自分以外の人が知らなきゃならないの……?」
 俺はビニールの囲いの中へ入り、その手に触れた。
「孤独な闘病生活ほど、辛い物はないと思うよ」
 俺は続けた。
「加奈ちゃんは、俺に心配をかけさせたくないから黙っててくれたんだよね。加奈ちゃんなりの親切だったんだよね。正直うれしい。でも、少しぐらいは頼ってよ。俺、加奈ちゃんの彼氏でしょ?」
 手の震えが次第に治まり始めていた。俺はさらに続けた。
「なんでも一人で抱え込むのはもうやめよう。加奈ちゃんは一人じゃないんだから」
 治まりだしていた手の震えが激しくなった。加奈ちゃんは体を曲げ、自分の額を俺の手の上に乗せ、泣いた。
 静かに涙が流れ、静かに体が振るえ、そして俺は静かに彼女の頭を撫でた。


 日が短くなってきた今日この頃。七時を過ぎるとあたりはだんだんと暗くなっていた。
 暫く泣き続けた後、加奈ちゃんはいつもの調子を取り戻した。昨日は見れなかった、加奈ちゃんらしい笑みが、涙の向こうにあった。
 長い間見つからず諦めかけたその時、実はすぐ足元にそれが落ちていた時のような、そんな安堵感があった。それだけ、加奈ちゃんの存在、笑顔が、俺の今の生活にとって当たり前になっていた。
 帰り道は、出来るだけ病気の事について考えないようにしていた。田代さんも肺炎は治らない事は無いと言っていた訳だし。
 第一、彼女の病気を治すのは俺じゃない。俺はあくまで彼女の彼氏として、メンタル面を支えてあげる為に加奈ちゃんのそばにいてあげる。
 だから俺は、彼女の前では常に彼女の知っている自分でありたい。疲れを見せたりはせず、常に自然体で接してあげる。
 ちゃんと小説の感想を話してあげる。それが少しでも彼女のためになるのならばそれでよかった。


 少し遅くなって家に帰ると、久しぶりに姉ちゃんが帰ってきていた。聞けば俺の帰りをずっと待っていたらしい。夕食はまだとっていないと堂々と言った。
 半ば呆れながら、俺は冷蔵庫の中にある物で適当に夕食を作った。簡単な野菜の炒め物。タマゴを落とした長ネギの味噌汁。
 なかなか質素な夕食だった。けど、俺だけが食べる分にはこれで特に問題はなかった。問題は姉ちゃんの反応。
 けど、俺の予想とは相反して、姉ちゃんは文句の一つどころか一言も喋らないで夕食を食べ始めた。どこか不気味だった。
「なんで今日帰り遅かったの?」
 ふと姉ちゃんは切り出した。
「加奈ちゃんと遊んでた?」
「遊んでた訳じゃない」
「でも会ってたんだ。まぁ当然か。彼氏だしね、あんた」
 意地の悪い笑みを浮かべた。人の恋心を弄ぶ小悪魔の笑み。
「……入院……してるんだ」
 その小悪魔も、それを聞くと流石に真顔になった。俺は続けた。
「毎日お見舞いに行ってるんだ。今日もやっぱり、お見舞いに行ってて帰りが遅くなった」
 姉ちゃんは「そう」とだけ言った。気がついたら二人とも箸が止まっていた。
 つけっ放しのテレビからは、編集で後からくっつけたスタッフの笑い声が響いてきた。毎回同じ笑い声。それでも、やっぱり有ると無いでは番組の盛り上がりに響くのだろう。
 司会を務めるお笑い芸人の声と共に、空しく家に充満するテレビの音。ブラウン管の向こう側は俺の気持ちなど全く理解しようとせずに笑い続ける。無性に腹立たしかった。
「なんの病気かは、聞かない方が良い?」
 俺は黙って頷くと続けた。
「加奈ちゃんは本当は俺にも黙っているつもりだったからね。やっぱり知られて心配させる事が凄く傷つくみたい。何でもかんでも自分ひとりで何とかしようって感じの子だから」
「強い子なんだね」
 そっと微笑んだ姉ちゃんの顔を見て、俺はまた黙って頷いた。俺も少し、笑みをこぼした。
「わかった。なら聞かない。その代わり、明日加奈ちゃんに会わせてよ」
 またしても姉ちゃんは突拍子もなく言った。相変わらず顔には笑みがあった。
「どうせ明日休みでしょ? お見舞いに同行させてよ」
 いきなりな提案ではあったが、特に断る理由も見当たらなかった。
 最初は何かしらの企みが有るものと思っていたが、話を進めるうちに段々とその可能性が薄れていった。ただ単純に俺の姉として、加奈ちゃんを見舞いたいだけらしい。
 結局、面会時間開始である明日の午後三時ごろから、俺は姉ちゃんと一緒に病院へ行く事となった。
 今日の姉ちゃんは、いつに無く不気味な姉ちゃんだった。


 翌日の三時ごろになって家を出た。そして家からそのまま病院まで直行。ナースステーションの看護師にお見舞いへ来た事を一言告げると無菌室へ急いだ。
 姉ちゃんは、当然無菌室への入室は初めてだった。入るための準備を全く知らなかった姉ちゃんに、俺は自分が教わった事を教わったとおりに教えた。
「ここに入るたびにこれをしなきゃならないの?」
 着替えながら姉ちゃんは言った。
「加奈ちゃんのためだから仕方ないんだ」
「いったい何の病気なの?」
 俺は答えなかった。答えられなかった。姉ちゃんはそんな俺を見て、悟ったように言った。
「言えないほどの重体なんだ」
 女性は、俗に言う第六感のようなものが男よりもさえている、と言うが、あながちウソでもないようだ。
 まず最初に俺から病室へ入った。姉ちゃんの紹介はもう少し待ってからにしようと、姉ちゃんと話して決めた。ちょっとしたサプライズパーティー。でもたぶん、一番テンションが高くなるのは姉ちゃんだろう。パーティーの裏の主役。
 加奈ちゃんは、待ちかねていたかのように笑顔で迎えてくれた。もう顔全体がマスクで覆われていても、目を見るだけで俺だと分かるそうだ。
「今日は加奈ちゃんに紹介したい人がいる」
「紹介?」
「っていうか、その人が自分から加奈ちゃんに会いたいって言ってきてね。突然で悪いけど」
「そんな事ないです。で、誰なんですか?」
 凄く好奇心をむき出しにした目は輝いていた。きっとこの好奇心が、加奈ちゃんの感性を磨いているのだろう。
 俺はいったん出入り口まで戻り姉ちゃんを呼んだ。姉ちゃんは、入るなりいつものテンションで自己紹介をした。
「初めまして〜。岳志の姉で美咲って言いま〜す。よろしくね〜、加奈ちゃん」
 とうの本人は、思わぬ珍客にキョトンとしていた。
「お〜い。か〜なちゃ〜ん」
 姉ちゃんは加奈ちゃんの目の前で手を振る。
「……本当にセンパイのお姉さんなんですか?」
「なんで?」
 俺は、もしかしたら加奈ちゃんは俺が浮気しているんじゃないかと疑っているのだろう、と思っていた。だから俺は、そんな事が出来るほど器用じゃない、などと言う言い訳を考えていた。
 でも、その考えを根底から覆された。
「だってキャラが正反対じゃないですか」


 突然の来訪に、加奈ちゃんは大いに満足したようだった。姉ちゃんと漫談をしている加奈ちゃんは、とても幸福そうだった。
 それを見ているだけで無性に楽しくなる。そして、時おり姉ちゃんが加奈ちゃんと耳打ちしているのを見ると、ふつふつと独占欲がわいて出た。これが嫉妬というやつなのだろう。
 女子同士と言うこともあってか、二人はあっと言う間に意気投合していた。ふだん他の女子と会話している所を見た事がなく、加奈ちゃんの意外な部分を見ることが出来た。それがとても新鮮だった。
 俺はひたすら二人の会話に耳を傾け続けた。時おり話を俺に振るが、俺は決まって、あらかじめ与えられていたような相づちをうつだけだった。
 そのたびに、姉ちゃんは「きっと妬いてんのよ」と茶化す。加奈ちゃんも、まるで打ち合わせをしていたかのように姉ちゃんの冗談に上手く乗って笑いを取った。意外な才能だった。
 二時間ほど時間がたった。ちらりと時計を見た姉ちゃんは、暫く硬直した。そんな姉ちゃんを見た俺は加奈ちゃんの方を振り向く。
 彼女も全く同様の行動をとっており、目と目があった。そして同じタイミングで首をかしげた。加奈ちゃんの顔が、俺から見てちょうど九十度に傾いていた。
「ああ!」
 姉ちゃんは、顔の向きも形もほぼ変えずに言った。
「梨恵子との約束忘れてた〜」
「美咲さんのお友達ですか?」
「そう。だからちょっと先帰るね」
 姉ちゃんはそそくさと身支度をして出入り口へ急いだ。
「じゃあまたいつか」
 それだけ言って、笑みを浮かべながら小さく手を振った。
 加奈ちゃんもそれに倣い手を振る。姉ちゃんはそれを確認すると、病室を後にした。
「面白い人ですね」
「そう?」
 そう言って振り向いた時見えた彼女の微笑みは、久しぶりに生き生きとしていた。
 姉ちゃんに合わせて正解だったと思う。言いだしっぺの姉ちゃんに、久しぶりに感謝した。

 続く

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