初めて来た人へ

―第十一話―

 九月十二日。その日の午前中はずっと上の空だった。原因は、相変わらず無菌室にいる加奈ちゃんの事だ。
 授業で先生が何を言っているのかがわからない程度ならまだ良いが、何の授業を受けたのかすら、よく覚えていない。
 ずっと考え事をしていた。『何を考えているのか』を考えていた。
 ふとした事で昼休みの訪れを知った。隣には新が居た。
「生きてたか」
「意識は飛んでたけどな」
「幽体離脱して空中浮遊でもしてたか?」
「いいね。やれるならやってみたいよ」
 彼は首をかしげた。
 などと言う会話をした後、二人で弁当を食いにいつもの日陰へ移動した。俺が弁当箱を開くなり、彼は「で?」と言い出し、続けた。
「芳井ちゃんとの関係はどうなのよ」
「どうなのよって……」
 いきなり聞かれても返答に困る。
「付き合ってんだろ? お前等」
 思わずタマゴ焼きを噛まずに飲み込んだ。
「気付いてなかったのか? お前」
「いや……」
 お茶で洗い流したつもりだが、まだどこか詰まった感があった。飲み込むよりは吐き出す方が楽だと思い軽く咳をすると、言葉を繋げた。
「うすうすは。でもそこまではっきり知られてるとは思わなかった」
「鈍感な奴」
「どうとでも言えって」
 若干投げやり気味に言った。鈍感なのは事実。否定する気は毛頭なかった。
 彼は「それで」と言ってきた。何が何でも加奈ちゃんとの関係について聞きたいらしかった。
「……素人なりにがんばってる、って所かな」
 新は「ほう」と言いうと、加奈ちゃんが最近学校にいない事についても聞いてきた。
 彼の方がよほど鈍感なんじゃないだろうか。俺はその事についてずっと考えていたのに。
 でも、そんな俺の心が彼に解る訳でもなく。他者は自分に対していつでも問答無用に問い掛けをしてくる。
「彼女、今入院してんだ」
「入院!?」
 少しオーバーな驚き方。でも、それが素だったと気づいた時、俺は観念して続けた。
「俺にもよく分からねぇ。気がついたら入院期間が長引いちゃって、今は……無菌室」
「……無菌室って……相当重傷じゃねえか」
「そうなのか?」
 彼の顔は真剣だった。
「無菌室って、例えば白血病患者とか、結果的に免疫力が低下する病気を発症した時に入れられる病室だぞ」
 俺が「よくそんな事知ってるな」と聞くと、彼は「金八先生でやってた」と答えた。思わず「なるほど」と頷いた。
 だが俺の頭は、実際そんな冗談めかしい状態ではなかった。
 加奈ちゃんが白血病かもしれないという、今まで考えもしなかった可能性が、新の一言で一気に上昇した。
 相当深刻そうな表情をしていたのか、新は俺の肩を叩き言った。
「大丈夫だって」
 出来るだけ明るく振舞おうとしているのが、声の調子で分かった。
「最近は、白血病にかかっても治療の末治るケースが多いんだ。仮に白血病だったとしても、そんなに心配する事はないって」
 その言葉で、俺は失いかけた意識を取り戻した。
 新は最後に「悪かった」と言い、穏やかな笑みを見せた。
 彼のそんな律儀な所が、俺は好きだった。


 でも、それは一時的な物でしかなかった。足が病院へ一歩近づくにつれ、それに比例して不安が自分を飲み込んでいく。
 どす黒い何かが俺の体を覆う。背筋がぞっとした。
 病院へつき無菌室へ向かっている最中に、田代先生に会った。
 またいつものように何事もなく横を通り過ぎるのだろうと思ったときだ。彼に呼び止められた。
「君が石井君だね」
 意外だった。と言うよりは何故と言うべきか。彼が俺の名前を知っているというい事実。
「芳井さんの病室へ入るのを何度か見た事がある。彼女と……付き合っているそうだね」
 彼は俺との距離を縮めながら言った。俺は「はあ」とだけ言った。第一印象で、どこか苦手な人だと認識してしまっていたせいかもしれない。
 でも、第一印象と次の印象が常に同じとは限らない。
 近くで顔を見て分かった。どこか厳しそうな、でもすごく穏やかそうな顔をしていた。
「彼女に会うたびに君との関係を惚気られたよ。その時ほど生き生きとした彼女は普段見れないから、主治医としてもどこかうれしい」
「……ありがとう……ございます」
 まだ緊張が解けていなかった。でも、その言葉に誘われるように、自然と笑みがこぼれた。
 田代先生も少しだけ微笑した。でも、すぐ真顔に戻る。つられ俺の笑みもどこかへ消え去った。
「……彼女が今何の病と戦っているか……本人は君には話していないそうだね」
「……はい」
「おそらく彼女からは言いづらい為だと思う。心配もかけたくない。教えてくれないのは、君に対する彼女なりの優しさだ。わかるね」
 次第に周りの時の流れが遅くなりだした。感覚と雰囲気で、次に彼の口から発せられる言葉が重要な事だというのを、無意識に感じ取っていた。
「……彼女は今、『後天性免疫不全症候群』で苦しんでいる」


 俺はそのまま、彼の診察室へ案内された。特別に時間をとり、俺に、今の彼女の様態について詳しく教えてくれる事になった。
「『後天性免疫不全症候群』と言う病名を、君は知っているかい?」
 皮肉な事に、その名前には聞き覚えがあった。中学の頃にそれについての講演会が開かれ、参加した事があったからだ。
「『エイズ』……ですよね」
 彼は頷いた。いたし方なくといった感じだった。
 ショックのあまり、どれだけのショックを受けたのかすら理解できずにいた。世界がその形を忘れたかのように、目の前が歪み、吐き気がした。
 でも、それを押しとどめる事しか俺には出来ない。義務とはまた概念の異なる義務。現実その物を維持し受け入れる為の行為。
 彼は俺に、エイズについての知識を、俺が知るべき範囲内で説明してくれた。
 エイズは、『ヒト免疫不全ウイルス』、通称『エイズウイルス』、略称『HIV』の感染によって引き起こされる病気だそうだ。
 治療をしないとHIVは増殖を続け、免疫機能の中心的な役割を担っているリンパ球を次々に破壊し、その結果免疫不全状態になり、さまざまな感染症や悪性腫瘍などを引き起こす。
 つまり、体に備わっている免疫機能が働かなくなる病気、それがエイズと言う病気なのだ。
 ただHIVに感染した事=エイズではなく、感染してから発病するには何年もかかるらしい。
 その間を――長い無症状期間の事を、医学では『無症候性キャリア』と呼ぶそうだ。
 この期間は、以前とまったく変わらない生活を送れるらしい。俺が加奈ちゃんと会った時は、まさにこの無症候性キャリアの時と断言して間違いそうだ。この期間は、長い人で十年前後、短い人で一年前後らしい。
 その間免疫力は低下し続け、『エイズ関連症候群』と呼ばれる症状――ひどい下痢や寝汗、長く続く発熱、理由の無い急激な体重減量などの症状が出始め、さらに免疫力が低下すると、今度は健康時には問題にならない種類のカビなどの病原体による『日和見感染症』などの症状が現れる。ここで初めて、エイズと診断されるのだ。
 HIVに感染するルートは、性行為による感染、母から子への母子感染、血液による感染の三つが上げられる。
 日本では平均的に性行為による感染が多いそうだ。だが、加奈ちゃんは今まで一度も誰とも体を交えた事はない。
 母子感染の場合、幼い赤ん坊は免疫力がもともと低く、すぐに発症し死んでしまうらしい。母の胎内で感染し生まれた子供に関しては、ほとんどが一年以内に亡くなるそうだ。
 つまり加奈ちゃんの場合は、可能性が極めて低いとされている血液感染が原因なのだ。
 血液による感染は、厳重な検査によって安全性が確保されている為、極稀な事である。しかし現在の技術水準では感染の可能性を完全には排除できない。
「君は、芳井さんがなぜ車椅子での生活を送っているか知っているかい?」
「いえ……」
 今まで彼女からその話を聞いた事はなかった。
 そして、彼女からも話そうとしなかったから、あえて聞かずにいた。それが親切だと思ったから。
「彼女は小学生の頃に交通事故に遭い、両足を複雑骨折のうえに下半身不随に陥っているんだ」
「下半身……不随……」
 次々と驚愕の事実が浮き彫りになる。俺は、それにのまれ混乱しないよう、必死に頭を整理した。
「その手術は困難を極めた。後遺症として下半身不随は免れそうにもなかった。だが医師達は最善を尽くした。しかし問題は、医師の技術にも、術後の経過でも、事故その物にも無かった」
「全ては……輸血用の血液」
 俺自身で先の言葉を出した方が、辛さが和らぐ物と思っていた。でも、そうしなかった時の辛さが分からない以上、結果的に辛い事には変わりないのだと知ると、少し惨めな気分になった。
 感染が発覚したのはそれから三ヶ月と少し後のこと。足の経過を見る検査の時、ふとした事がきっかけで血液を調べたら、案の定感染していた。
「幸いの早期発見と思われた。早いうちに日和見感染症の予防をすれば、こんな大事に至る事はないと。だが、彼女は生まれつき体が丈夫じゃなかった」
 案の定、感染から八年経った今年にエイズは発症。日和見感染症から来るカリニ肺炎に侵されてしまった。彼は最後にそう続けて言った。
「今はその肺炎の治療をしている。治らない訳ではないからさほど深刻に考える事ではないのだがね……」
 そう言った後、思いつめたように俯いてしまった。
 そして顔を上げた。
「彼氏である君には、彼女の今の状況を知ってもらいたかった」
 その言葉以上の事を訴えかけた表情をしていた。


 病室にはいった時、加奈ちゃんはいつもの調子で俺に挨拶をしてくれた。ついさっき彼女の容態を聞いたばかりの俺にとって、これほどつらい事は無かった。
 加奈ちゃんはすぐ俺の後ろにいた田代先生に気がつき、彼に対しても挨拶をする。「一緒だったんですね」と言って小さく笑った。
 この状況下で笑える分、正直彼女はしっかりしていると思った。その無邪気さ故なのかどうかはわからないけれど。
「……センパイ?」
「……ん?」
 そう言って手を差し出す。何の為か分からなかったから加奈ちゃんに聞くと、「ノート」と一言だけ言った。
 そこでふと気がついた事。それは小説を持ってき忘れたという事。
 それを加奈ちゃんに話すと、流石の彼女も何事かと俺の方を見た。
「センパイどうしたんですか? 元気ないみたいですけど……」
 ビニール越しでも分かる彼女の瞳。まるでレントゲンのように体の隅々を内側まで見られている気になる。
 俺は、半分すがる思いで田代先生の方を見た。
 彼の瞳もまた、この縋りたいと言う思いごと、どこかへと吸い込まれそうな光沢を放っていた。
 ゆえに俺は長くその瞳を見れなかった。すぐに視線をそらし俯くしかなかった。
 なぜこの二人は、こんなにも平然としていられるのだろうか。俺には分からなかった。闘病中の本人よりも気が動転していて、その主治医よりも事の重大さに焦っている気がした。
 やがて田代先生はその口を開いた。
「彼には全てを話した」
 彼女にはその一言で全てを理解できる何かがあったようだ。とたんに目を見開き言った。
「なんで教えたんですか、田代さん!」
 彼女が声を荒げた瞬間をはじめて見た。俺の知っている彼女ではなかった。
「センパイにだけは……知られたくなかったのに……」
「……加奈ちゃん」
 その一言を発するだけで精一杯だった。慰めの言葉も思い浮かばない。
 いや。実際この状況で言う言葉は慰めではないのかもしれない。もっと包容力と説得力のある言葉が必要なのだろう。
 けど、そこまで分かっていながら言葉が見つからなかった。その事に、すごく自己嫌悪した。
「……お願いします……センパイ」
 俯きながらの声。涙声だった。シーツを掴む彼女の小さな手により一層力が加わった。
 あんな小さな手のどこからあれほどの力が出てくるのか、不思議でならなかった。
 悲しみとは、受けた心の傷と、その痛みをこらえる力とが一つになって、はじめて『悲しみ』と言うのだなと、無意識の内に実感していた。
「……一人にしてください」


 二人で病室を後にする。あんな取り乱した加奈ちゃんを見たのは初めてだった。それほど、自分の現状を知られたことがショックだったのだろう。
「先生」
 廊下を並んで歩きながら、俺は聞いた。
「彼女の病状を、俺は知るべきだったんでしょうか」
 空間が張り詰めていた。戸惑いが支配し、その間に葛藤が見え隠れしていた。
 暫く沈黙があった。先生は、それから静かに口を開いた。
「今の芳井さんには、大きく分けて二つの絆で結ばれている。一つは『親』と繋がった『親子』と言う絆。もう一つは君と言う『恋人』と繋がった『愛』と言う絆」
 彼は立ち止まって続けた。
「両方とも、強い絆だ。取り分け『愛』は、時として二人を『親』にするほどのな。その『愛』で結ばれた君だからこそ、知っていなくてはならない。君には、恋人として、彼女を支える義務がある」
 彼の目は、やはり真っ直ぐで、温かくて、力強かった。
「彼女を……支えてくれるね」
 穏やかな笑み。それを直視できなかった俺は思わず顔をそらした。
 そらした先には窓があり、そこから暗くなった街が見えた。
 真っ黒なキャンパスに白く、街頭の光が見えた。一つ一つがとても小さくはかなかった。でも、そんな光でも一点に集めれば強くなる。希望も可能性も、零じゃない。
 俺は振り返った。そして自然な微笑を、彼に見せて言った。
「……はい」

 続く

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