初めて来た人へ

―第十話―

 九月になり、新学期が始まった。
 久しぶりに友達と会ったが、受験勉強で家や塾にこもりっ放しのせいか、日焼けをしている人はほとんどいない。もっとも、ある意味で俺もその部類なんだけど。
 加奈ちゃんの方はと言うと、結局退院は出来ず、今日も病院にいる。
「残念だったね」
 学校帰りに病院へ寄った。もちろん、お土産のミスタードーナツを持って。
「せっかくの新学期初日も入院なんて」
「しょうがないですよ」
 加奈ちゃんはショコラフレンチを一口加えた。彼女は口の周りについたパウダーシュガーを指でなぞる様にして取り、なめた。
「それに、行く時は元気な姿で行きたいし」
 俺はオールドファッションを食べながら「そうだね」と言った。サクッと言う食感とシンプルな甘味が好きだった。
「それよりセンパイ」
 加奈ちゃんは指についたパウダーシュガーを舐め取ると、大学ノートを差し出した。
「はいはい」
 俺は半ば呆れながら、そのノートを手に取った。
 彼女の無邪気な笑顔を見ていると、入院も彼女の容態も、どうでもいい様な気がしてきた。たいした事も無いんだなと感じた。
 俺は小説を読み始めた。小説の中でも、主人公とヒロインは無邪気な会話を交わしていた。とてつもない危機を目の前に。


 それからは毎日、放課後病院へ行くようになった。
 加奈ちゃんから借りたノートを返したり、続きの書かれたノートを借りたりしなければならなかったし、何より個人的に、加奈ちゃんの顔が見たかった。
 彼女の健康の事を考えて、ドーナツは二日に一回のペースで買う事にした。
 加奈ちゃんはその二日に一回を心待ちにしていた。無邪気な子供のように。そう言う時の加奈ちゃんは、とても可愛かった。
 ホームページに掲載している小説の評判を、俺は逐一加奈ちゃんに話した。加奈ちゃんは、読者の、時に厳しい批評を表情一つ変えず聞き、そして受け入れていった。
「例え批評でも、感想を書いてくれるのは嬉しいです」
 加奈ちゃんは続けた。
「今までちゃんとした感想ってもらった事が無いから、すごく新鮮です」
「自分の技術向上にも繋がるしね」
 俺が付け足すように言うと、彼女は微笑みで返した。
 実際、加奈ちゃんはその才能をめきめきと向上して言った。それもひとえに、読者の感想があったからこそだ。
 突発的な考えから淡々とやって来たが、それがこれほどの結果を出すとは、夢にも思わなかった。
 始めてよかった。加奈ちゃんにとっての、将来への第二の起点。その場に立ち会えて嬉しかった。


 夏休みが終わり八日がすぎた。
 ここ数日、残暑が厳しかった。早く涼しい秋になってもらいたかった。
 その暑さから逃げるように病院へ入る。病院の中は、涼しいと感じる前に汗が冷えて寒気がするほどだった。
 少し加奈ちゃんが羨ましかった。でも加奈ちゃんにとっては、外で自由に活動する方がよほど羨ましい事なのだと思うと、愚痴をこぼすのはよそうと思った。
 加奈ちゃんの病室へ、少し急ぎ足で向かった。早く彼女に会いたかった。
 病室を視界にとらえると、とうとう走り出した。だが突然病室のドアが開き、俺は足を止めた。
 一人の看護婦と、灰色に所々白が入り混じっている顎鬚を生やした医師が出てきた。彼はドアの所で中へ向かって軽く会釈をすると、俺の方へ歩いてきた。
 目があった。俺は軽く会釈をしたが、彼はそのまま横を通り過ぎていった。
 暫く彼の後ろ姿を見送っていると、再びドアが開いた。
 まだ誰か出てくるのかと思って振り返る。そこには、加奈ちゃんにそっくりな人が立っていた。ずいぶん綺麗な人だった。そして例の如く目があってしまった。
「……もしかして……あなたが石井さん?」
 その言葉で、俺はやっと気がついた。
「か……芳井さんのお母さん……ですか?」
 その女性は「ええ」と頷いた。少し小柄な人だった。加奈ちゃんの将来の姿をそのまま描いたような。
「毎日お見舞いに来てくれてるそうで」
「あ……いえ。まぁ」
 どうもこう言うシチュエーションは苦手だ。初めてなのだけれど。
「お見舞いですか?」
「ええ」
 加奈ちゃんのお母さんは続けた。
「でも私はもう帰るから……。ゆっくりしてってね」
 それだけ言うと、彼女は俺の横を通り過ぎていった。どこかよそよそしかった。まぁあの人にとって、俺は加奈ちゃんを狙うよそ者なのだろうけど。


「さっきそこで、加奈ちゃんのお母さんにあった」
 加奈ちゃんのベッドの横の椅子に座りながら俺は言った。
「綺麗な人だね。加奈ちゃんそっくり」
 彼女は「ほんとですか?」と照れ笑いを浮かべた。
「加奈ちゃんもあんなキレイな人になるのかな」
「おだてても何も出て来ませんよ」
「大丈夫。期待してないから」
 そう冗談混じりに言うと、彼女は「ひど〜い」と頬を脹らませ笑った。
「あと、お母さんが出る前に、白い鬚の医者が居なかった?」
 加奈ちゃんの笑みが、一瞬にして止まった。
 その事を不思議に思いはしたが、俺は気にせず続けた。
「あれ、誰?」
 彼女の笑みは、もう消えていた。聞かれたくない事を聞かれた。そんな表情だった。
 少し後悔をした。でも、もう時既に遅しで、そして彼女は静かに口を開いた。岩のような重々しい口を。
「私の主治医の……田代さんです」
 彼女は続けた。
「ちょっと今後の事で話があって……お母さんも一緒に……」
「……そ……か」
 自分の責任だった。望んでもいない、よどんだ空気。何かが重く圧し掛かる。ある種の罪悪感だと気がついた時、俺はかばんからある物を取り出した。
「それよりさ」
 加奈ちゃんは俺の方に顔を向けた。
「久しぶりに覗いてみる? BBS」
 少し安心した事は、彼女が、元の笑顔を取り戻した事。
「はい」


 車椅子を押して中庭へ出た。暑かったけど、それほど苦にはならなかった。
 西日が病院の白い壁をオレンジ色に染めていた。久しく目にしなかった綺麗な夕日に、加奈ちゃんは感銘したのか小さく息を吐いた。
 中庭には一本の大きな木が佇んでいた。そしてそこを中心に緑が広がっている。ある意味、メンタル部分の治療には最適な所だった。
 その大きな木の袂のベンチに座り、そして俺の膝に加奈ちゃんを座らせると、パソコンを立ち上げホームページを開いた。
「たくさん来てますね。感想」
「でしょ?」
 彼女は画面をスクロールしながら、全部の感想に目を通した。
 どの感想にも、最後は社交辞令なのか本音なのか、あるいは両方なのか定かではないが、『続きを楽しみにしています』という言葉で終っていた。
 でもどちらにせよ、それが加奈ちゃんの原動力になっている事は間違いなかった。
「私、いろんな人から期待されてるんですね」
「だね。彼氏として誇らしいよ」
 加奈ちゃんはクスっと笑った。
「……私も頑張らないといけませんね」
「頑張りすぎは良くないけどね」
「はい」
 加奈ちゃんは、感想をくれた人たち皆にお礼の言葉を返信した。
 俺は覗こうと思ったけどよく見えなかった。俺の居る場所からだと、画面いっぱいに、夕日の色が反射していた。


 面接時間終了が迫ってきたので、俺たちは病室へと戻った。
 彼女をベッドに寝かせると、かばんからノートを取り出し彼女に渡した。
「じゃぁまた明日取りに来るから」
 加奈ちゃんはまた小さく笑った。
「『会いに来るから』、の間違いなんじゃないですか?」
 本心はとうの昔に見破られていたらしかった。俺は観念して、小さく笑った。
「じゃぁ、センパイ」
「ん?」
「『また明日のキス』」
「……はいはい」
 ベッドの上の加奈ちゃんの唇に、そっと唇を重ねた。病院に来ては「『こんにちはのキス』」、帰る時には「『また明日』のキス」」。この所の定番だった。
 そんな駄々っ子な加奈ちゃんも、あどけなくて好きだった。キスを終えると俺は決まって加奈ちゃんの頭を撫でた。
「あ、そうだ」
 ふと加奈ちゃんは、何かを思い出したように、突然言った。
「明日、多分病室が変わっていると思うんで……」
 彼女はいったん、そこで言葉を見失ったようだった。そして俺も、ついさっき耳に入ったその言葉を、見失いかけた。
「……明日来た時は、また病室を確認してくださいね」
 俺は「わかった」とだけ答え、ドアを閉めた。困惑に伴う軽いめまいがした。


 不思議だとは思っていたのだ。
 そこそこの長期入院なのに、未だに良くなりもしないし、日に日に痩せているような気もした。
 彼女の性格上、自分からそう言った風な事は言わないし、雰囲気に出そうともしない。
 ふと思った事は、実はすごく重く治療が困難な病気を患っていて、彼女自身その病名を知っていて、俺に隠しているのではないか、という事。
 いくつもの不安が脳裏を過ぎった。そして、それを否定しようと足掻く自分の姿も。
 病室の変更。明日その事実を目の当たりにした時、それを吉と見るか凶と見ざるを得なくなるのか。
 或いは、明日が起点なのかもしれない。俺と加奈ちゃんの、これからに対する。


 その病室の名前は、『無菌室』と言うらしい。
 まずドアを開け入ると、小さな個室がある。脇には洗面所のような物があり、そこでうがい手洗いをして外からの細菌を駆除する。
 あらかじめ消毒の済んでいるガウンを着、頭も帽子の様な物を被って、マスクをする。そして最後に、靴を脱ぎ専用のスリッパに履き替える。
 そうする事で、始めて病室へと入れるのだ。
 中はすごく広々としていた。でも実際、中央の辺りには大きなビニールの囲いがあって、感覚的にはそんなにも広いとは思えなかった。
「センパイ。こんにちは」
 病室は変わっても、加奈ちゃんは相変わらずだった。
「ビックリしました?」
「そりゃ……しない方がおかしいって」
 いろんな意味で。
 彼女の病気に対する不安が、より一層大きくなった。
「じゃぁとりあえずしましょうか」
「何を?」
「『こんにちはのキス』」
「しても大丈夫なの?」
「ちゃんとうがいしましたよね」
「でも……」
「大丈夫ですよ。だから早く」
 そう、駄々をこねた。
 俺は観念し、ビニールの囲いの中へ入り、マスクをずらしてそっと唇を重ねた。何も変わった様子の無い、弾力のある唇だった。


 その日は、いつもの様に学校の話をしたり、小説の話をしたりして過ごした。
 そして小説の続きを少し読むと、すぐに面接時間終了が迫った。
「もう帰るんですか?」
「時間が押してるからね」
 俺は続けた。
「ちゃんと『また明日のキス』はしてあげるから」
 キスをしてビニールの囲いから出る。そしていざ帰ろうと思っても、体が動かなかった。
 何かを遣り残したような不快感。そんな様子を見かねたのか、加奈ちゃんは言った。
「どうしたんですか?」
「……いや。別に……」
 そしてまた沈黙。
「……加奈ちゃんは……辛くない? この現状」
 ふと口からこぼれた言葉だった。意識した言葉ではなく、あくまで無意識に出た言葉。
「……センパイが居なかったら……きっと辛かったと思います」
 加奈ちゃんは続けた。
「だから明日も来て下さいね……必ず」
「ああ……必ず」
 俺は加奈ちゃんの方を振り向いて言った。
 ビニール越しの彼女の微笑みが、どこか物悲しかった。

 続く

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