初めて来た人へ

―第五話―

 保健室に行くと、いつものように、テーブルに教科書等を広げている加奈ちゃんが居た。
 彼女いわく、教室で授業を受けることは出来なくは無いのだが、保健室での生活を特別に許されているそうだ。
 つまり教室に行かなくても、保健室に来ていれば欠席扱いになる事は無く、当然成績が良ければ、進級だって出来る。所謂保健室登校って奴だ。
 保健室に来て休んでいるわけじゃない。加奈ちゃんはあくまで、勉強をする為に、保健室によっている。
「あ、センパイ。こんにちは」
「昨日はゴメン。友達がどうしてもって言うんでさ」
「いいですよ。センパイも私ばっかりに付き合ってて、退屈でしょう」
「別にそんな事は無いけどさ、最近そいつ色々あってさ。元気無くて」
「センパイって友達思いなんですね」
 彼女の意外な言葉に、俺は少し戸惑う。
「そ、そんな事ねぇよ! ただの腐れ縁っつーかなんつーか……」
「あははは。照れてるセンパイってカワイイ」
「か、カワイイ?」
「はい! あはははは!」
 そんなに笑わなくても。でも、せきを切ったように笑う加奈ちゃんを見ていると、何故だろう。俺までおかしくなってきた。
「ぷっ……。なんだよ。そんな笑わなくても」
 はぁと息をはくと、加奈ちゃんの隣に座った。
「はい、これ」
 加奈ちゃんが、カバンからノートを取り出した。
「ん。ありがと」


 俺は、パタッとノートを閉じた。
 彼女の書いた小説は、六十ページ分の大学ノートでは書き切れないぐらいの大作なのだろう。もう一冊文を書き終えてしまっている。
「……」
「どうしました? センパイ」
 読み終えたとたん、黙りっぱなしの俺に、加奈ちゃんは問いかけた。
「……」
「センパイ?」
「……なんだこれ……すげ〜」
「……センパイ?」
「この展開、すげ〜いい! 全然予想できなかった!」
「ほ、ほんとですか?」
 ぱぁっと笑顔で言う加奈ちゃん。
「ああ。やっぱりすげ〜よ、加奈ちゃん」
「えへへ。ありがとうございます」
 照れ笑いを浮かべながら、彼女は読み終えたノートを受け取る。
「また明日、続き書いてきますね」
「ああ。ありがとう」
 その言葉を最後に、沈黙が始まった。
 少し気まずい。静寂しきった保健室で聞こえるのは、時計の音。
 あと、異様に高まっている自分の鼓動。
 ――なに緊張してんだよ。俺。
 あまりこのような状況にあったことが無く、なれていないのは分かる。
 だが、これは異常だ。ここまで鼓動が高まる事なんて、そうそう無い。
 自分の鼓動が、加奈ちゃんに聞かれていないだろうか。そんな不安が押し寄せる。
「……あの……センパイ?」
「……なに?」
 その静寂を振り払ったのは、加奈ちゃんだった。
「突然こんな事聞くのって……アレかもしれないんですけど……」
「うん……」
「センパイって……付き合ってる人って居るんですか?」
「……え?」
 突然何を聞くんだろうと焦った。
「別に居ないけど……どうしたの?」
 加奈ちゃんの顔を覗き込もうとしたが、加奈ちゃんは顔を逸らしてしまった。
 だが、かすかに見える彼女の頬は、赤くなっていた。
「な、何でも無いです。えへへへ〜」
 開き直ったかのように、照れ笑いをする。
 何がなにやら、良くわからなかった。俺は鼻で息をすると、背もたれに身を任せた。
「そーゆー加奈ちゃんは、彼氏居ないの?」
「い、居ませんよ〜! 出来た事だってありません!」
 勢い良く否定する。顔は真っ赤だ。
「うっそだ〜。一回ぐらい告られたことあるでしょ?」
 実際、彼女はかわいらしい。興味を持つ男子は、きっと居るはずだ。
 だが、何気無く聞いた質問だが、それが彼女にとって酷である事に気がつかなかった。
 なぜもっとはやくに気がつかなかったのだろう。
 彼女には普通の女の子と違い、得られている自由が少ない事を。
「あまりクラスの人と話す機会が少ないんで……とくに男の子とは全然……」
「……あ……ゴメン。気がつかなくて……。俺ほんと、そーゆーとこ不器用でさ……なんて言っても、言い訳にもなんないか」
「大丈夫ですよ。別に気にしてませんし。それに今、こうして……」
 最後の方が、もじもじしていて聞き取れなかった。
「……ううん。やっぱり何でもないです。それより、センパイは無いんですか? そーゆーの」
 結局話を変えられた。正直、加奈ちゃんが言いかけた言葉が気になる。
「とくに無い……かな……。仲の良い子なら居たけど……好きとかそーゆーのは無かったな。でも、あまりに仲が良かったから、噂された事はある」
「そうなんですか。いいな〜」
「何が?」
「そーゆー経験無いから、なんかいいな〜って思っただけです。えへへ」
 と、また照れ笑いを浮かべる。
 加奈ちゃんと、こんな風に恋愛話に花を咲かせるとは、思いも寄らなかった。
 もちろん、加奈ちゃんだって年頃の女の子だ。こう言う話にだって興味を持っているはずだ。
 それは分かっていた。でもその話し相手が、まさか俺なんかとはと、少し複雑な思いだった。
「加奈ちゃんは、今、気になってる人って居ないの?」
「そ……それは……」
「それは?」
「い……い……」
「い?」
「……『い』えません……言えないです」
 一瞬、やけに『い』を強調していた気がする。
 気のせいかと思ったが、なぜか彼女の顔は真っ赤だった。
 経験が無いから良く分からない。こういうのを恋愛話と言うのだろうか。
「気になるな〜。ま、いっか」
 話が一段落したところで、ふと時計を見ると、もう四時を過ぎていた。
「さ〜て。そろそろ帰るかな」
 カバンを持って立ち上がる。
「あ、私ももう帰ります。一緒に行ってもいいですか?」
「いいけど……先生に言わなくて大丈夫なの?」
 すると彼女は、近くにあった、使用済みのプリントの裏に、メモを記した。
「なるほど。置手紙ね」
 彼女は、「はい」と言って頷く。
 姉ちゃんも見習ってもらいたい物だ。出かけるときは置手紙の一つでも置いていけばいいのに。
 ――ま、あのアホにそれを求めるのは無謀か
 なんとか自力で車椅子に乗る彼女を見つめていて、ふとそんな事を思った。
 加奈ちゃんと接していて分かったが、加奈ちゃんは、最低限自力で出来る事は、全て自分でしないと気がすまない子のようだ。いい意味での頑固。
 手伝おうとしても、自分で出来るのでと言って断られてしまう。
 やっぱりそんなところを見ていると、全然姉ちゃんなんかよりもしっかりしている。
 カバンを膝の上に置き、車椅子を九十度回転させ、俺の方を向く。
「準備できました」
「ん。行こうか」
 保健室のドアを開け、玄関へと向かった。


「なんかいつもセンパイに甘えてばかりですね。ごめんなさい」
「そんな事ないよ。て言うか、もう少し他人に甘えてもいいんじゃないかな」
 彼女の車椅子を押しながら、俺は言った。
「そうかな……迷惑じゃないですか?」
「加奈ちゃんはそんな心配しなくてもいいの」
 と、優しく言う。
 校庭には、部活で走り回っている生徒がたくさんいた。
 当然といえば当然の風景。
 その中を、校門めざし突っ切って行く俺たちは、どこか目立っている様な気がした。
 校門を出て、左へ曲がろうとしたその時。
「センパイ? 今日は右ですよ?」
「……あれ?」
「センパイ、この後用事ありますか?」
「特に無いけど……近くのスーパーかなんかで買い物程度かな」
「ほんとですか? じゃぁ、少し商店街の方に行きたいんですけど、付き合ってくれませんか? 新しいノートとか欲しいんで」
 なるほど。
「いいよ。でも大丈夫? 商店街って、やっぱ人多いし」
「平気ですよ〜。そこまで体弱くありません」
 自信満々と言った様子だった。あまり気が進まないが、彼女が大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろう。
 校門を右に曲がり、商店街を目指した。

 続く

第四話へ

目次へ

第六話へ